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法然上人と知恩院

伊藤唯眞猊下のお言葉

2016年5月

『あの世を思う心』総本山知恩院門跡 伊藤唯眞

『古事記』などに記される日本人の古い考え方では、亡くなれば黄泉(よみ)の国に行くとされました。死者が帰って来ないように境に石などを建て、その奥にある黄泉の国は決して行くべき所ではありませんでした。「よみがえる」には「黄泉の国から帰る」という意味があります。

日本に仏教が伝わり、この世での行いの善悪によって、死後に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界に行き、生死の苦しみを繰り返すという「六道輪廻」の世界観が受け入れられるようになりました。人々は「どこから来てどこへ行くのか」という根本的な命題に向き合うとともに、六道輪廻の苦しみから逃れるために六道とは次元の異なる極楽浄土という理想の世界を思慕しました。極楽浄土は空想の世界ではなく、実在する世界として信仰されてきました。

法然上人は極楽浄土に「まいる」と常に言っておられました。「まいる」とは「まい入る」が変化した言葉ですから聖なる世界へと入っていくということになります。極楽浄土に往生できるかどうかは、自分と阿弥陀さまとの通じ合いであって、他者にはわかりませんが、生きている間に称えていたお念仏の功徳によって阿弥陀さまのお迎えがあるのです。

私たちは死をどんな形で迎えるか分かりません。親しかった人と別れることの寂しさや悲嘆、恐怖を感じた時に、死後に浄土で出会いたいという思いを持ち、こころ癒される浄土教の信仰に目覚めていくことがあります。今は目に見える世界を中心に考える「物」の時代ですが、私たちは目に見えない「心」の世界を大事にしていかなければなりません。目に見えない世界にあの世、浄土があり、そこに「まいる」ためにお念仏があるのです。生前にお念仏を称えることで、安らぎの心を持って穏やかに死を迎えることができます。そしてまた、やがては訪れる死を思い、極楽浄土に往きたいと願ってお念仏を称えると、この世での生活が充実してきます。死の恐怖から人は逃れられませんが、その死から目をそむけていては生の充実はありえないのです。



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