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法然上人と知恩院

伊藤唯眞猊下のお言葉

2016年9月

『「いのち」を想う』総本山知恩院門跡 伊藤唯眞

人間の体の中にあり、精神や生命を支配する目に見えない存在が霊魂(れいこん)、たましいです。人間という個体を内側から成り立たせる根源になるものです。日本人は古くから、魂と体は別物で、死後には魂が体の外へ出ていくと考えていました。魂が消えるほど驚くという意味から「たまげる」は「魂消る」と書きます。亡くなった直後の魂は、荒れやすく祟りがあると考えられ「荒魂(あらたま)」と呼ばれていました。毎年7月に行われる祇園祭は、疫病神や怨みをもった死者による祟りを防ぐための鎮魂の儀礼(御霊会(ごりょうえ))が起源となっています。

法然上人は御法語の中で「魂」という言葉を使われています。『元祖大師御法語』前篇22章に「屍(かばね)(死体)はついに、苔の下にうずもれ、たましいは独り旅の空に迷う」と肉体から魂が離れていく様子が述べられています。

阿弥陀さまを信じてお念仏をお称えしていれば、死ぬとすぐに浄土へ行ける「即得往生」が浄土宗の教義です。亡き人に向けたお念仏が阿弥陀さまに届いて、その力で極楽に生まれるのです。中陰には極楽に往(い)った亡き人を包んでいる蓮華の花が早く開くことを願い、追善の誠を捧げます。中陰とは残された者の悲しみや苦しみを癒すとともに、亡き人への想いを深めるための期間なのです。

私たちが生きているのは息をしているからです。命は息であり、呼吸が止まれば人は亡くなります。「息のあるうち」から命という言葉が生まれました。生命には、私たち個人が生きている間の「生命(いのち)」だけでなく、先祖(おや)からもらった永遠の「いのち」があります。息に生(う)む意があって、男の子を息男、女の子は息女と言うように、親から子へ、孫へと次代へ息が繋がっていく永遠の「いのち」の中で、今の私たちが生きているのです。

月や夕陽、海原を見て、そこに仏や先祖の魂を感じることがあるかと思います。「いのち」のつながりを感じ取るときには、合掌をする気持ちが自然と生まれてくるはずです。それは、身体を通して自分たらしめている「生命」と、過去・現在・未来を通して自分たらしめる永生の「いのち」とが合流するのを感得するからこそであります。



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