English
文字サイズ フォント小フォント大

法然上人と知恩院

伊藤唯眞猊下のお言葉

2017年5月

『互いに想う』総本山知恩院門跡 伊藤唯眞

奈良県東北部の都祁村(つげむら)(現・奈良市都祁)の辺りに住んでいた念仏同法者の正行房(しょうぎょうぼう)は、法然上人や直弟たちと非常に親しい間柄であった人物です。元久元年(1204)から建永元年(1206)、法然上人が72歳から74歳の頃に、正行房に宛てて書かれた直筆の手紙が3通、昭和37年に奈良の興善寺で発見されました。正行房が両親の追善供養のために阿弥陀如来像を造り、両親の遺骨と直弟らの手紙と共に胎内に納入したものと考えられます。法然上人の優しく、温かみのある文字からは、息づかいが感じられます。

「お手紙、詳しく承りました。道中、事故もなく無事に帰られたこと、心より喜んでおります。京都では皆変わりなく過ごしています。あなたの離京に、我々が不安がっているとお思いでしょうが、ご心配には及びません。ところで小袖(袖口の小さな内衣)、確かに拝受いたしました。大変嬉しいことです」

お互いに離れてしまい、心細く寂しい中で、相手を気遣い、形式ばらずに小袖を贈るほど親密な関係であったことが分かる一通です。

この他にも、身の安全を知らせ、熊谷直実という人物に触れているもの、瘧(おこり)という病に苦しむ法然上人を心配する正行房に、病状が治まっていると伝えているものなどが2通残されています。

欣西(ごんさい)の手紙によれば、当時弾圧を受けていた法然上人は、万が一のことを考え、正行房や直弟たちを故郷へ下向させ、正行房は涙ながらに奈良へ帰ったのでした。

証空の手紙によれば、正行房は周囲から頼られる存在であり、善導大師の御堂を建てていたことから、南都の有力者で土地を持ち、経済的な力で法然上人を支えていたと考えられます。また、法然上人の病気が再発し、一刻も早い上洛を促しており、緊迫した状況も伝わってきます。

残存する手紙は断簡でありますが、これらの日常的な返簡から、離れていても慕い合う師匠と弟子の絆の深さが感じられます。



▲ ページのトップへ