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法然上人と知恩院

大遠忌の歴史

800年前

報恩の想いは時とともに盛んに

50年に1度の法然上人の大遠忌―――その歴史をたどりゆけば今から800年前に遡ります。

建暦2年(1212)1月25日に法然上人がご入滅されたとき、遺された弟子たちは悲しみにくれます。師の報恩のため、弟子たちの長老であった法蓮房信空(ほうれんぼうしんくう)が中心となり、世間の風儀に順じて七日七日の仏事をお勤めいたしました。 月忌には追善法会「知恩講」が御廟堂周辺でいとなまれました。月忌の法式を定めた『知恩講私記』は、のちの時代に遠忌法要が確立されるときに影響を与えることになります。翌年には1周忌、さらに翌年には3回忌がお勤めされており、その後も、50回忌、100回忌、150回忌と、 節目ごとの法要は欠かさず行われています。

大遠忌の歴史とはいわば、800年という時間の中で、先達が変わることなく法然上人を讃えてきた道筋を示すものといえましょう。

『法然上人行状絵図』巻三十八段二
▲ 『法然上人行状絵図』巻三十八段二


もっとも、念仏の元祖 法然上人を仰ぐ想いは同じでも、歳月とともに法要のあり方は変化します。

800年の歴史の中で転換点となったのは、大永4年(1524)に当時の天皇である後柏原天皇より出された「大永の御忌鳳詔(ぎょきほうしょう)」でした。 これは、天皇の命により「知恩院にて法然上人の御忌を7日間にわたって勤めよ」と定めるものであり、 以降、毎年1月18日から25日まで法然上人の忌日法要がお勤めされることになります。 もちろん、50年ごとの遠忌も例外ではなく、この詔勅に基づいて行われます。なお、明治10年以降は法要期間が厳寒の1月から陽春の4月に変更されています。

江戸時代になると、徳川家康公と縁の深かった知恩院は、慶長8年(1603)に703石余(現在の通貨に換算して約146億円)という大規模な寄進を受け、 御影堂、集会堂、大方丈、小方丈といった大伽藍をいくつも建立します。このときには、山地を平地化するための大工事も併せて行われ、 境内はほぼ今日の形に整えられました。

知恩院は京都東山の中腹に位置するので、多勢の参詣者を迎え入れるのには地形的に適しません。 にもかかわらず、後述するように、1日に10万人をかぞえる遠忌法要の参詣者をも境内に収容できるのは、この造成に由来するのです。

『華頂山大法会図録』より「知恩院細見之図」
▲ 宝暦11年(1761)刊行の『華頂山大法会図録』より「知恩院細見之図」
当時の知恩院の境内は、すでに現在の形とほぼ変わらない


その後、慶長12年(1607)には家康の奏請により知恩院に宮門跡を置く運びになり、慶長16年(1611)、知恩院は法然上人の400回忌を迎えます。 浄土宗の寺院は戦国時代末期から江戸時代初期にかけて全国で多く開創されており、400回忌の頃は知恩院のみならず、浄土宗全体が発展を遂げた時期でした。 新たに造成された伽藍での法要はさぞ盛大だったろうと偲ばれるのですが、あいにく、知恩院は寛永10年(1633)に大火に遭い、記録を消失しています。

50年後の450回忌のおりには、知恩院から浄土宗末寺へ上洛し登嶺するようあらかじめ達しがあり、全国から知恩院へと来集して法要がお勤めされたと伝えられています。


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