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法然上人と知恩院

大遠忌の歴史

明治時代(700回忌)

鉄道時代の遠忌

江戸時代から明治時代に変わっても遠忌法要それ自体は過去を継承する形で行われます。が、欧米から輸入された科学技術が社会を一新させたことで、 遠忌を取り巻く雰囲気も変わりました。特に、交通網や通信網が発達したことは、参詣者へ大きな影響を与えました。

明治44年(1911)、明治時代になって初めての遠忌を迎えます。法然上人の700回忌は、奇しくも親鸞聖人(1173~1263)650回忌の年にもあたり、 開通した鉄道を利用してかつてない規模の団体参詣者が京都に集まることが予想されました。事前に入念な準備が進められ、団体参拝に関する諸規定を取り決めた上で、明治43年7月には全国の浄土宗寺院に通達を出し、法要期日が3月1日から7日と4月19日から25日であり、団体参拝はこのうち前期のみで受け付ける旨を伝えています。
知恩院と東西本願寺の3つの遠忌法要のために鉄道を利用する団体は、遠忌法要まであと半年と迫った明治43年10月時点の見込みで、60万人にも達しました。 京都駅のみでは参詣者をとても収容しきれないことが判明し、急遽、梅小路駅が設けられることになります。旅館等の宿泊施設も当然不足するので、寺院に依頼して補っています。

遠忌法要は盛大を極め、特に前期1週間の中日に行われた庭儀式は「前代未聞の盛儀」「ただ見る満山これ人」で、この日1日で参拝者は10万人を超えました。 前期1週間を通じてでは、50万人の人出だったと記録されています。写真を見れば、境内を埋め尽くす参詣者に驚きを禁じえません。

庭儀式には10万人の参詣者が登嶺
▲ 庭儀式には10万人の参詣者が登嶺


1000人を超える布教師が登嶺し、知恩院およびその周辺での記念伝道に励んだ事も、この遠忌の特徴です。 50年後の750回忌の時に知恩院門跡をつとめることになる岸信宏上人も教化活動につとめられ、後に振り返って次の言葉をのこされています。

「この前の明治44年の700年御遠忌当時は、宗教大学に在学中で、全校こぞって知恩院へ参拝し、鹿ヶ谷にあった仏教専門学校を宿舎にして、 期間中毎日知恩院へ通い、天幕伝道や団参のお世話をしましたことを覚えています。」

700回忌の記念事業として、全国の檀信徒から浄財を募り、御影堂修理と阿弥陀堂建替えと華頂女学校の建設が実施されています。

明治時代になって徳川家の後ろ盾を失い、江戸時代と同じように大師号が宣下されるか心配されましたが、重ねて上奏したところ「明照大師」と諡(おくりな)されました。御影堂内部に掲げられる「明照」の額は、明治天皇崩御ののちに、大正天皇より下賜されたものです。

阿弥陀堂落成に沸く
▲ 阿弥陀堂落成に沸く


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