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おてつぎ運動

特集記事

2015年5月

『戦後70年。沖縄開教のいま』

沖縄と仏教

昭和50年に再建された袋中寺本堂。手前には鐘楼

沖縄の地に念仏の教えを初めて伝えたのは、袋中(たいちゅう)上人(1552~1639)だ。慶長8年(1603)、教えを求めて中国(明)に渡ろうとしたものの入国が叶わず、琉球王国(1429~1879)に上陸して3年間滞在。上人がその間にお念仏の教えを説いた様子は、『琉球国由来記』に「仏教をはじめて俗にやわらげて那覇の人民に伝えた。これが念仏の始めである」と記されている。

だが、袋中上人の帰国後、浄土信仰は衰退した。琉球王国は江戸時代には薩摩藩の支配下に置かれるかたちで幕藩体制に組み込まれたものの、檀家制度が定着することはなく、琉球神道と呼ばれる独自の信仰文化が発展した。祭祀を担ったのはノロ(女性司祭者)やユタ(民間霊媒師)だった。

「沖縄学の父」と呼ばれる伊波普猷(いはふゆう)氏(1876~1947)は、「明治12年(1879)の廃藩置県によってようやく生きた仏教をはじめ多くの思想や宗教が沖縄にもたらされた」と考察している(「進化論より見たる沖縄の廃藩置県」)。しかしその後も、昭和12年に檀王法林寺(京都市)の信ケ原良哉上人が袋中

寺を創建したが太平洋戦争で焼失。沖縄の開教は再び途絶えることになる。現在の袋中寺の本堂は、那覇市の小禄(おろく)の地に昭和50年に再建されたものだ。

檀家制度のない地での布教活動

袋中寺住職 遠藤紀雄さん

今日なお、沖縄には檀家制度が存在しない。この地に、お念仏の教えはもとより仏教文化はどれほど根付いているのだろうか。

袋中寺住職の遠藤紀雄さん(31)は、「沖縄の人々は先祖供養に対する意識を強く持っていますが、お念仏を称えて極楽浄土へ往生を願うという世界観が広く受け入れられているわけではないと思います」「戦争で失われた多くの命をユタが供養したので、今でもユタに供養してもらう人が多いのでしょう」という。それでも、「最近はお坊さんに安心感を持ってもらえているようです」と手ごたえを語る。

檀家制度がない中で、信頼関係を築くのには苦労が絶えない。

「先代住職だった父が地域のつながりを積極的に作り、お経も説法も評判だったおかげで今日の袋中寺があります。でも、法事の依頼の電話がかかってきたときに『○日○時は先約がありまして』と答えようものなら、『じゃあ他のお寺を探します』と言われ、5年10年続いてきた縁がそれっきりで切れてしまったりします。やっぱり落ち込みますよね」と遠藤さん。まるでレストランやホテルを予約するかのように、法事の予定日の前日に突然依頼がくることもよくあるらしい。

お念仏の信仰を根付かせるために

普照寺住職 瀬戸口弘訓さん(右)と
副住職 瀬戸口弘瑞さん(左)

ウチナーイフェー(沖縄位牌)。朱色の木札には、故人の戒名ではなく俗名が彫られることもよくあるという

普照寺本堂(平成24年5月再建)にて、
今年3月13日に開催されたおてつぎ運動推進大会

普照寺(沖縄県島尻郡)住職の瀬戸口弘訓さん(80)も、沖縄で布教する困難さを指摘する。

「沖縄ではお墓参りのときに、『南無阿弥陀仏』じゃなくてね、『うーとーとー』と言って拝むんです。ユタの言葉です。でも意味のわからない言葉で供養するよりも、お念仏の意味を正しく知って信じたうえで供養したほうがいいでしょう」

瀬戸口さんは、昭和53年、44歳のときに沖縄へ移住。その4年後に普照寺を設立した。

「『あんまんだー』という響きだけは残っているんです。お葬式などをめぐって物乞いをする『ねんぶちゃー(念仏者)』がこのあたりにはいましたから。でもそのために、浄土宗に対するイメージはよくないですね。以前はお坊さんが歩いているだけで石を投げられたこともあったそうです」

そのような状況だからこそ、浄土宗の信仰の根幹を正しく伝えたいと願い、平成18年に袋中寺を会所に沖縄ではじめて五重相伝会を開いた。受者はなんとか72名を集めた。

「どれだけの受者に信仰心を持ってもらえたでしょうか。もともと、むんちゅー(門中)という父系血縁組織が地域の祭祀文化を作っているところに、仏教が入り込んでいくわけですからね。沖縄では善導大師の説かれたように『自信教人信(自ら信じ人を教えて信ぜしむ)』を徹底し、住職が出向いて交流し、人脈を作っていくしかありません」

―取材をしてみて、私が想像していた以上に違った沖縄の文化。仏教の空白期間が長すぎた、ということだろうか。平和な時代が続き、瀬戸口さん、遠藤さんはじめ沖縄の僧侶のもとで、信仰が育まれていくことを願ってやまない。

(取材・文 池口龍法)



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