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国宝・御影堂大修理

国宝・御影堂ものがたり

第3回 御影堂の歴史(2)

知恩院古地図(寛永の大火前後のもの)
▲ 知恩院古地図(寛永の大火前後のもの)

前回、慶長8年(1603)に徳川家康公により寺領が拡張され、中段の地に御影堂、集会堂、大小方丈、大小庫裏等の諸堂の造営が行われ、それまで上段の地の勢至堂(本地堂)にお祀りしていた御影像が御影堂に遷座されたことを述べました。
 ところが、知恩院第三十二世霊巖(れいがん)上人代の寛永10年(1633)正月9日、火災が発生、勢至堂、経蔵、三門以外の建物が焼失してしまいました。そのときの様子が、当時知恩院の山役で、塔頭(たっちゅう)良正院の宗把(そうは)上人の手記に詳細に書かれています。
 「正月九日亥の刻(午後10時)火が出て、私は一番に方丈に入り火の元に行ったが、すでに小方丈北側半分まで火が移っていた。霊巖上人は猛火の中に飛び込もうとしていたのでそれをなだめ、人を付けてお護りした。私は奥に入り権現様や秀忠公ご拝領の品などを持ち出した。御影堂に延焼するのを防ぐ為、霊巖上人や寺内の衆、一心院住持、近辺の衆とともに御影堂北側の廊下を切り離そうとした。そこへ周防守様の御家中木下宮内殿が駆けつけたが、時すでに遅く、延焼を免れなかった。」
 今回の800年大遠忌事業でこの御影堂北側の廊下の修理に伴う調査で、火事の教訓を活かし、柱を引き抜くと倒れる構造になっていたことが判り、今回の修理でも同じように引けば崩れるようにしています。

霊巖上人木像(知恩院蔵・御影堂内安置)
▲ 霊巖上人木像(知恩院蔵・御影堂内安置)

 さて、霊巖上人はすぐさま江戸に下がり、三代将軍家光公に報告しました。家光公は再建の命を下し、片桐貞昌を造営奉行として復興が行われ、寛永16年(1639)5月には御影堂立柱、同年7月上棟となり、その後約2年で大・小方丈、唐門などを含めた現在の伽藍が再建されました。
 霊巖上人が知恩院の「再興上人」と称されるのは、この出来事によるのです。

知恩院の大鐘大鐘に刻まれた六字名号

▲ (左)諸堂復興のかたわら、霊巖上人は幕府の力を借りずに民衆の力だけで梵鐘を新鋳しようと発願し、諸国より金物と浄財を募りました。これにより70トンの大梵鐘が鋳造されました。

▲ (右)大鐘に刻まれた六字名号(霊巖上人直筆)


年表
文暦元年(1234) 源智上人、法然上人廟堂を改修し仏殿・御影堂・総門も建て華頂山知恩教院大谷寺とする。
永享3年(1431) 火災により焼失。空禅上人、勧進と足利義教の援助を得て諸堂を再建。
応仁元年(1467) 応仁の乱により諸堂焼失。
文明14年(1482) 朝野の賛助を得て阿弥陀堂・御影堂を旧地に再建。
永正14年(1517) 三度目の火災により焼失。
享禄3年(1530) 御影堂(現在の勢至堂)再建。
慶長8年(1603) 徳川家康、知恩院を菩提所と定める。寺領拡大・大伽藍の造営はじまる。
寛永10年(1633) 火災。勢至堂、経蔵、三門のみ災いを免れる。
寛永13年(1636) 大梵鐘の鋳造
寛永18年(1641) 諸堂の再建なる(御影堂・大小方丈など)


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