御法語
静かに以れば、善導の観経の疏は、これ西方の指南、行者の目足なり。然ればすなわち、西方の行人、必ず須く珍敬すべし。
なかんずく、毎夜の夢の中に僧ありて、玄義を指授せり。僧というは、恐らくはこれ弥陀の応現なり。爾らば謂うべし、この疏は弥陀の伝説なりと。いかに況や大唐に相伝して云わく、「善導はこれ弥陀の化身なり」と。爾らば謂うべし、「この文はこれ弥陀の直説なり」と。すでに、「写さんと欲わん者は、もはら経法のごとくせよ」と云えり。この言、誠なるかな。
仰ぎて本地を討ぬれば、四十八願の法王なり。十劫正覚の唱え、念仏に憑みあり。俯して垂迹を訪えば、専修念仏の導師なり。三昧正受の語、往生に疑いなし。本迹異なりといえども、化導これ一なり。
こに貧道、昔この典を披閲してほぼ素意を識れり。立ちどころに余行をとどめてここに念仏に帰す。それより已来、今日に至るまで、自行・化他、ただ念仏を縡とす。然る間、希に津を問う者には、示すに西方の通津をもてし、たまたま行を尋ぬる者には、誨うるに念仏の別行をもてす。これを信ずる者は多く、信ぜざる者は尠し。〈已上略抄〉
念仏を事とし、往生を冀わん人、豈に此の書を忽せにすべけんや。
現代語訳
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静かに以れば、善導の観経の疏は、これ西方の指南、行者の目足なり。然ればすなわち、西方の行人、必ず須く珍敬すべし。
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しずかに思いめぐらしますと、善導大師の『観経疏』は西方極楽への指針であり、念仏者の眼であり足であります。それゆえ西方を願う行者は、必ず尊び敬わなければなりません。
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なかんずく、毎夜の夢の中に僧ありて、玄義を指授せり。僧というは、恐らくはこれ弥陀の応現なり。爾らば謂うべし、この疏は弥陀の伝説なりと。いかに況や大唐に相伝して云わく、「善導はこれ弥陀の化身なり」と。爾らば謂うべし、「この文はこれ弥陀の直説なり」と。すでに、「写さんと欲わん者は、もはら経法のごとくせよ」と云えり。この言、誠なるかな。
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特に、毎夜の夢の中に僧侶が現れて、〔『観無量寿経』の〕奥深い教えを〔善導大師に〕教授したのです。僧侶というのは、おそらく阿弥陀仏の仮の姿でありましょう。それならば言うべきです。「この『観経疏』は阿弥陀仏から説き伝えられたものである」と。ましてや、偉大なる唐の国では、「善導大師は阿弥陀仏の生まれ変わりである」と伝えられています。それならば言うべきです。「この〔書の〕文言は阿弥陀仏の直説である」と。現に〔大師が自ら〕「書写しようと思う者は、専ら経典のように扱いなさい」と言っておられます。この言葉はまことにもっともです。
※なかんずく…指授せり=善導『観経疏』「散善義」(『浄全』二・七二頁上)。
※善導は…化身なり=王日休『龍舒増広浄土文』(『浄全』六・八六七頁上)。
※写さん…せよ=善導『観経疏』「散善義」(『浄全』二・七三頁上)。
※この言、誠なるかな=「善導大師が〈『観経疏』を仏説と思え〉と言われたのは、〈自分は阿弥陀仏である〉という暗示である」との趣意。 -
仰ぎて本地を討ぬれば、四十八願の法王なり。十劫正覚の唱え、念仏に憑みあり。俯して垂迹を訪えば、専修念仏の導師なり。三昧正受の語、往生に疑いなし。本迹異なりといえども、化導これ一なり。
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仰いで本の姿をたどれば、四十八願を〔立てられた〕法王(阿弥陀仏)であります。〔阿弥陀仏が〕十劫の昔に覚りを示されたことは、念仏が頼みとするに足る証拠です。ひれ伏して仮の姿をたどれば、専修念仏の導師(善導大師)であります。「三昧を体得した」というそのお言葉は、念仏往生に疑いがないことの証明です。本の姿と仮の姿との違いがあっても、教導される内容は一致しています。
※十劫正覚の唱え=阿弥陀仏の成仏以来十劫が経過していることについては『無量寿経』(『浄全』一・一二頁)、『阿弥陀経』(『浄全』一・五三頁)参照。
※三味正受の語=善導大師が『観経疏』末尾で自身の三昧発得(阿弥陀仏や極楽を見る体験)を述べられたこと。『観経疏』「散善義」(『浄全』二・七二頁上)参照。 -
こに貧道、昔この典を披閲してほぼ素意を識れり。立ちどころに余行をとどめてここに念仏に帰す。それより已来、今日に至るまで、自行・化他、ただ念仏を縡とす。然る間、希に津を問う者には、示すに西方の通津をもてし、たまたま行を尋ぬる者には、誨うるに念仏の別行をもてす。これを信ずる者は多く、信ぜざる者は尠し。〈已上略抄〉
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そこで私法然は、以前にこの『観経疏』をよく読んで、ほぼ本旨を理解し、すぐさま他の修行をやめて、念仏に帰依しました。そのとき以来、今日に至るまで、自分の行も他者への教化も、ただ念仏のみに専念してきました。その間、まれに覚りへの渡し場を尋ねる者には、西方へ通じる渡し場を示し、たまたま行を尋ねる者には、念仏という特別の行を教え諭しました。これを信じる者は多く、信じない者は少ないのです。〈以上、『選択集』より〉
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念仏を事とし、往生を冀わん人、豈に此の書を忽せにすべけんや。
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念仏を専らにし、往生を求め願う人は、どうしてこの書物(『選択集』)をおろそかにできるでしょうか。できはしないのです。
※念仏を…べけんや=『勅伝』編纂者の言葉。