法然上人のお言葉

前篇
第二十七章

親縁しんねん

念仏者が弥陀を礼し称え念じれば、弥陀はこれを見聞き念じて、両者が親子のようになる。自分の耳に聞こえる程度以上の声で念仏せよ。

(勅伝第二十三巻)

御法語

善導ぜんどうの、三縁さんえんうち親縁しんねんしゃくたまうに、「衆生しゅじょうほとけらいすれば、ほとけこれをたまう。衆生しゅじょうほとけとなうれば、ほとけこれをたまう。衆生しゅじょうほとけねんずれば、ほとけ衆生しゅじょうねんたまう。かるがゆえ阿弥陀仏あみだぶつ三業さんごう行者ぎょうじゃ三業さんごうと、かれこれひとつになりて、ほとけ衆生しゅじょうおやのごとくなるゆえ親縁しんねんづく」とそうらいぬれば、御手おんて数珠ずずたせたまいてそうらわば、ほとけこれをらんそうろうべし。

御心おんこころに「念仏ねんぶつもうすぞかし」とおぼそうらわば、ほとけ行者ぎょうじゃねんたまうべし。

されば、ほとけまみえまいらせ、ねんぜられまいらする御身おんみにてわたらせたまそうらわんずるなり。

さはそうらえども、つねおんしたのはたらくべきにてそうろうなり。三業相応さんごうそうおうのためにてそうろうべし。三業さんごうとは、くちこころとをもうそうろうなり。しかもほとけ本願ほんがん称名しょうみょうなるがゆえに、こえ本体ほんたいとはおぼすべきにてそうろう

さてみみきこゆるほどもうそうろうは、高声こうしょう念仏ねんぶつのうちにてそうろうなり。

現代語訳

善導ぜんどうの、三縁さんえんうち親縁しんねんしゃくたまうに、「衆生しゅじょうほとけらいすれば、ほとけこれをたまう。衆生しゅじょうほとけとなうれば、ほとけこれをたまう。衆生しゅじょうほとけねんずれば、ほとけ衆生しゅじょうねんたまう。かるがゆえ阿弥陀仏あみだぶつ三業さんごう行者ぎょうじゃ三業さんごうと、かれこれひとつになりて、ほとけ衆生しゅじょうおやのごとくなるゆえ親縁しんねんづく」とそうらいぬれば、御手おんて数珠ずずたせたまいてそうらわば、ほとけこれをらんそうろうべし。

善導大師が三縁の中の親縁を解釈されたところに、「衆生が〔阿弥陀〕仏を礼拝すれば、仏はこれをごらんになる。衆生が仏〔の名号〕を称えれば、仏はこれをお聞きになる。衆生が仏を念ずれば、仏も衆生をお念じになる。それゆえ阿弥陀仏の三業と行者の三業とが、それぞれに一致して、仏も衆生も親子のようになるので、親縁と名づける」とありますので、御手で数珠じゅずっておられるならば、仏はこれをごらんになるでしょう。

※衆生…名づく=善導『観経疏』「定善義」(『浄全』二・四九頁上)。

御心おんこころに「念仏ねんぶつもうすぞかし」とおぼそうらわば、ほとけ行者ぎょうじゃねんたまうべし。

心に「念仏を称えるのだ」とお思いになれば、仏も行者をおおもい下さるでしょう。

されば、ほとけまみえまいらせ、ねんぜられまいらする御身おんみにてわたらせたまそうらわんずるなり。

それゆえ仏にごらんいただき、おおもいいただく身とおなりになるでしょう。

さはそうらえども、つねおんしたのはたらくべきにてそうろうなり。三業相応さんごうそうおうのためにてそうろうべし。三業さんごうとは、くちこころとをもうそうろうなり。しかもほとけ本願ほんがん称名しょうみょうなるがゆえに、こえ本体ほんたいとはおぼすべきにてそうろう

そうは申しましても、常に舌をはたらかさねばなりません。三業を一致させるためであります。三業とは身体と口とこころと〔の行為〕を申すのです。しかも〔阿弥陀〕仏の本願である称名念仏なのですから、声に出すことを根本とお思いになるべきであります。

さてみみきこゆるほどもうそうろうは、高声こうしょう念仏ねんぶつのうちにてそうろうなり。

さてその場合、自分の耳に聞こえる程度に称えれば、高声の念仏のうちに入るのです。

※高声の念仏=声高らかに称える念仏。一般的には推奨されるが、時と場合によるのでここでは最低の基準が示されている。