御法語
善導の、三縁の中の親縁を釈し給うに、「衆生仏を礼すれば、仏これを見給う。衆生仏を称うれば、仏これを聞き給う。衆生仏を念ずれば、仏も衆生を念じ給う。かるが故に阿弥陀仏の三業と行者の三業と、かれこれ一つになりて、仏も衆生も親子のごとくなる故に親縁と名づく」と候いぬれば、御手に数珠を持たせ給いて候わば、仏これを御覧候うべし。
御心に「念仏申すぞかし」と思し食し候わば、仏も行者を念じ給うべし。
されば、仏に見えまいらせ、念ぜられまいらする御身にてわたらせ給い候わんずるなり。
さは候えども、常に御舌のはたらくべきにて候うなり。三業相応のためにて候うべし。三業とは、身と口と意とを申し候うなり。しかも仏の本願の称名なるが故に、声を本体とは思し食すべきにて候。
さて我が耳に聞ゆる程申し候うは、高声の念仏のうちにて候うなり。
現代語訳
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善導の、三縁の中の親縁を釈し給うに、「衆生仏を礼すれば、仏これを見給う。衆生仏を称うれば、仏これを聞き給う。衆生仏を念ずれば、仏も衆生を念じ給う。かるが故に阿弥陀仏の三業と行者の三業と、かれこれ一つになりて、仏も衆生も親子のごとくなる故に親縁と名づく」と候いぬれば、御手に数珠を持たせ給いて候わば、仏これを御覧候うべし。
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善導大師が三縁の中の親縁を解釈されたところに、「衆生が〔阿弥陀〕仏を礼拝すれば、仏はこれをごらんになる。衆生が仏〔の名号〕を称えれば、仏はこれをお聞きになる。衆生が仏を念ずれば、仏も衆生をお念じになる。それゆえ阿弥陀仏の三業と行者の三業とが、それぞれに一致して、仏も衆生も親子のようになるので、親縁と名づける」とありますので、御手で数珠を繰っておられるならば、仏はこれをごらんになるでしょう。
※衆生…名づく=善導『観経疏』「定善義」(『浄全』二・四九頁上)。
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御心に「念仏申すぞかし」と思し食し候わば、仏も行者を念じ給うべし。
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心に「念仏を称えるのだ」とお思いになれば、仏も行者をお念い下さるでしょう。
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されば、仏に見えまいらせ、念ぜられまいらする御身にてわたらせ給い候わんずるなり。
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それゆえ仏にごらんいただき、お念いいただく身とおなりになるでしょう。
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さは候えども、常に御舌のはたらくべきにて候うなり。三業相応のためにて候うべし。三業とは、身と口と意とを申し候うなり。しかも仏の本願の称名なるが故に、声を本体とは思し食すべきにて候。
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そうは申しましても、常に舌をはたらかさねばなりません。三業を一致させるためであります。三業とは身体と口と意と〔の行為〕を申すのです。しかも〔阿弥陀〕仏の本願である称名念仏なのですから、声に出すことを根本とお思いになるべきであります。
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さて我が耳に聞ゆる程申し候うは、高声の念仏のうちにて候うなり。
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さてその場合、自分の耳に聞こえる程度に称えれば、高声の念仏のうちに入るのです。
※高声の念仏=声高らかに称える念仏。一般的には推奨されるが、時と場合によるのでここでは最低の基準が示されている。