法然上人のお言葉

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第二章

立教開宗りっきょうかいしゅう

仏教の覚りは三学によるが、それに堪えられないと思った私は、三学によらない道を善導大師の教えの中に見出した。

(勅伝第六巻)

御法語

おおよそ仏教(ぶっきょう)(おお)しといえども、所詮(しょせん)(かい)(じょう)()三学(さんがく)をば()ぎず。いわゆる小乗(しょうじょう)戒定慧(かいじょうえ)大乗(だいじょう)戒定慧(かいじょうえ)顕教(けんぎょう)戒定慧(かいじょうえ)密教(みっきょう)戒定慧(かいじょうえ)なり。

(しか)るに()がこの()は、戒行(かいぎょう)において一戒(いっかい)をも(たも)たず、禅定(ぜんじょう)において(ひと)つもこれを()ず。人師(にんじ)(しゃく)して、「尸羅(しら)清浄(しょうじょう)ならざれば三昧(さんまい)現前(げんぜん)せず」と()えり。

また凡夫(ぼんぶ)(こころ)(もの)(したが)いて(うつ)(やす)し。(たと)えば猿猴(えんこう)の、(えだ)(つた)うがごとし。(まこと)散乱(さんらん)して(どう)(やす)く、一心(いっしん)(しず)まり(がた)し。無漏(むろ)(しょう)()(なに)によりてか(おこ)らんや。もし無漏(むろ)智剣(ちけん)なくば、いかでか悪業(あくごう)煩悩(ぼんのう)のきずなを()たんや。悪業(あくごう)煩悩(ぼんのう)のきずなを()たずば、(なん)生死(しょうじ)繋縛(けばく)()解脱(げだつ)する(こと)()んや。(かな)しきかな、(かな)しきかな。いかがせん、いかがせん。

ここに我等(われら)ごときはすでに戒定慧(かいじょうえ)三学(さんがく)(うつわもの)にあらず。この三学(さんがく)(ほか)に、()(こころ)相応(そうおう)する法門(ほうもん)ありや、()()()えたる修行(しゅぎょう)やあると、よろずの智者(ちしゃ)(もと)め、(もろもろ)学者(がくしゃ)(とぶら)いしに、(おし)うるに(ひと)もなく、(しめ)すに(ともがら)もなし。

(しか)(あいだ)(なげ)(なげ)経蔵(きょうぞう)()り、(かな)しみ(かな)しみ聖教(しょうぎょう)(むか)いて、()ずから(みずか)(ひら)()しに、善導和尚(ぜんどうかしょう)観経(かんぎょう)(しょ)の、「(いっ)(しん)(もっぱ)弥陀(みだ)名号(みょうごう)(ねん)じ、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)時節(じせつ)久近(くごん)()わず、念々(ねんねん)()てざる(もの)、これを正定(しょうじょう)(ごう)()づく。()(ほとけ)(がん)(じゅん)ずるが(ゆえ)に」という(もん)見得(みえ)(のち)我等(われら)がごとくの無智(むち)()は、(ひとえ)にこの(もん)(あお)ぎ、(もは)らこの(ことわり)(たの)みて、念々不捨(ねんねんふしゃ)称名(しょうみょう)(しゅ)して、決定往生(けつじょうおうじょう)業因(ごういん)(そな)うべし。

現代語訳

おおよそ仏教(ぶっきょう)(おお)しといえども、所詮(しょせん)(かい)(じょう)()三学(さんがく)をば()ぎず。いわゆる小乗(しょうじょう)戒定慧(かいじょうえ)大乗(だいじょう)戒定慧(かいじょうえ)顕教(けんぎょう)戒定慧(かいじょうえ)密教(みっきょう)戒定慧(かいじょうえ)なり。

およそ仏の教えは数多くありますが、つまるところは、戒定慧という三種の修行方法以外にありません。すなわち、小乗仏教の戒定慧、大乗仏教の戒定慧、顕教の戒定慧、密教の戒定慧であります。

(しか)るに()がこの()は、戒行(かいぎょう)において一戒(いっかい)をも(たも)たず、禅定(ぜんじょう)において(ひと)つもこれを()ず。人師(にんじ)(しゃく)して、「尸羅(しら)清浄(しょうじょう)ならざれば三昧(さんまい)現前(げんぜん)せず」と()えり。

ところが私自身は、戒の修行については一つの戒すら守ることができず、禅定については一つもこれを体得していません。ある高僧が解釈して、「戒が浄らかでなければ、対象に心を集中する境地は現れてこない」と言われました。

※人師=権威ある仏教者。ここでは中国天台宗の開祖、智顗ちぎ(五三八―五九七)を指す。

また凡夫(ぼんぶ)(こころ)(もの)(したが)いて(うつ)(やす)し。(たと)えば猿猴(えんこう)の、(えだ)(つた)うがごとし。(まこと)散乱(さんらん)して(どう)(やす)く、一心(いっしん)(しず)まり(がた)し。無漏(むろ)(しょう)()(なに)によりてか(おこ)らんや。もし無漏(むろ)智剣(ちけん)なくば、いかでか悪業(あくごう)煩悩(ぼんのう)きずな()たんや。悪業(あくごう)煩悩(ぼんのう)のきずなを()たずば、(なん)生死(しょうじ)繋縛(けばく)()解脱(げだつ)する(こと)()んや。(かな)しきかな、(かな)しきかな。いかがせん、いかがせん。

また、凡夫の心は物事を見聞きするにつれて移ろい易いのです。たとえば、猿が枝から枝へと渡っていくようなものです。本当に散乱して動きやすく、心を静めることは難しいのです。〔そんな時、〕煩悩に染まらない正しい智慧が、どうして起こるでしょうか。もし煩悩に染まらない智慧の剣がなければ、どうして悪業や煩悩というきずなを断ち切ることができるでしょうか。もし悪業や煩悩という絆を断ち切らなければ、どうして迷いの境涯に縛り付けられている身を逃れることができるでしょうか。本当に悲しいことです。本当にどうしたらよいのでしょうか。

ここに我等(われら)ごときはすでに戒定慧(かいじょうえ)三学(さんがく)(うつわもの)にあらず。この三学(さんがく)(ほか)に、()(こころ)相応(そうおう)する法門(ほうもん)ありや、()()()えたる修行(しゅぎょう)やあると、よろずの智者(ちしゃ)(もと)め、(もろもろ)学者(がくしゃ)(とぶら)いしに、(おし)うるに(ひと)もなく、(しめ)すに(ともがら)もなし。

そこで、「我々のような者は、もはや戒定慧という三種の修行のうつわではない。この三種の修行方法の他に、私のような者の心にふさわしい教えはあるだろうか、私のような者の身に可能な修行はあるだろうか」と、多くの智者に教えを請い、様々な学者を訪ねましたが、教えてくれる人もなく、示してくれる友もありませんでした。

(しか)(あいだ)(なげ)(なげ)経蔵(きょうぞう)()り、(かな)しみ(かな)しみ聖教(しょうぎょう)(むか)いて、()ずから(みずか)(ひら)()しに、善導和尚(ぜんどうかしょう)観経(かんぎょう)(しょ)の、「(いっ)(しん)(もっぱ)弥陀(みだ)名号(みょうごう)(ねん)じ、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)時節(じせつ)久近(くごん)()わず、念々(ねんねん)()てざる(もの)、これを正定(しょうじょう)(ごう)()づく。()(ほとけ)(がん)(じゅん)ずるが(ゆえ)に」という(もん)見得(みえ)(のち)我等(われら)がごとくの無智(むち)()は、(ひとえ)にこの(もん)(あお)ぎ、(もは)らこの(ことわり)(たの)みて、念々不捨(ねんねんふしゃ)称名(しょうみょう)(しゅ)して、決定往生(けつじょうおうじょう)業因(ごういん)(そな)うべし。

そういうわけで、嘆きつつ経蔵にはいり、悲しみつつ仏典と向き合い、みずから手にとって読んだところ、善導和尚の『観経疏』の「心を一つにしてひたすら阿弥陀仏の名号を念じ、立ち居起き伏し、時間の長短を問題とせず、片時もやめない、これをまさしく定まった行いと名づける。それはかの阿弥陀仏の本願にしたがっているからである」という一文を知ることができました。それからというもの、「我々のような無智の者は、ひたすらこの文を仰ぎ敬い、専らこの道理を頼みとして、片時もやめない称名念仏をおさめて、往生を決定させる因として準備するべきである」〔と深く心に留めたのであります〕。

※一心に…故に=『観経疏』「散善義」(『浄全』二・五八頁下)。「立教開宗の御文」と呼ばれる。