法然上人のお言葉

前篇
第六章

五劫思惟ごこうしゆい

法蔵菩薩は、一切衆生を平等に浄土へ迎えるため、「私の修行の功徳を南無阿弥陀仏の六字にこめて人々に称えさせよう」と決意された。

(勅伝第三十二巻)

御法語

酬因感果しゅういんかんかことわりを、大慈大悲だいじだいひ御心みこころうち思惟しゆいして、年序ねんじょそらにもりて、星霜せいそうこうおよべり。しかるに善巧方便ぜんぎょうほうべんめぐらして思惟しゆいたまえり。

しかも、「別願べつがんをもて浄土じょうどして、薄地底下はくじていげ衆生しゅじょう引導いんどうすべし。その衆生しゅじょう業力ごうりきによりてまるるといわば、かたかるべし。

すべから衆生しゅじょうのために永劫ようごう修行しゅぎょうおくり、僧祇そうぎ苦行くぎょうめぐらして、万行万善まんぎょうまんぜん果徳円満かとくえんまんし、自覚覚他じかくかくた覚行窮満かくぎょうぐうまんして、その成就じょうじゅせんところの、万徳無漏まんどくむろ一切いっさい功徳くどくをもて、名号みょうごうとして、衆生しゅじょうとなえしめん。衆生しゅじょうもしれにいてしんいたして称念しょうねんせば、がんこたえてまるることべし」。

現代語訳

酬因感果しゅういんかんかことわりを、大慈大悲だいじだいひ御心みこころうち思惟しゆいして、年序ねんじょそらにもりて、星霜せいそうこうおよべり。しかるに善巧方便ぜんぎょうほうべんめぐらして思惟しゆいたまえり。

法蔵菩薩は、修行という原因に応じてその報いが得られるというすじみちを、〔衆生のために〕大慈大悲の御心みこころでお考えになるうち、年数はいつしか積み重なり、歳月は五劫に及びました。それでも巧みな手立てをあれこれとお考えになりました。

しかも、「別願べつがんをもて浄土じょうどして、薄地底下はくじていげ衆生しゅじょう引導いんどうすべし。その衆生しゅじょう業力ごうりきによりてまるるといわば、かたかるべし。

その上に、「私は特別の願を立てて浄土に住まいし、仏道修行の低い位にある衆生を導き入れよう。その衆生自身の修行の力で浄土に生まれるという〔すじみち〕であれば、それは難しいだろう。

すべから衆生しゅじょうのために永劫ようごう修行しゅぎょうおくり、僧祇そうぎ苦行くぎょうめぐらして、万行万善まんぎょうまんぜん果徳円満かとくえんまんし、自覚覚他じかくかくた覚行窮満かくぎょうぐうまんして、その成就じょうじゅせんところの、万徳無漏まんどくむろ一切いっさい功徳くどくをもて、名号みょうごうとして、衆生しゅじょうとなえしめん。衆生しゅじょうもしれにいてしんいたして称念しょうねんせば、がんこたえてまるることべし」。

私は是非とも衆生のために、限りなく長い修行生活を送り、果てしなく長い難行を重ねて、多くの修行と多くの善行の結果としての徳をもまどかに満たし、自らも覚り他者をも覚らせるという覚りへの修行をもきわめ、そのことでそなわった、煩悩のけがれのない無数の功徳を、すべて私の名号にこめて、衆生に称えさせよう。衆生がもしこれを深く信じて称名念仏するならば、私の願に応じて、〔間違いなく〕生まれることができるであろう」〔とお考えになったのです。〕

※自覚…窮満=『観経疏』「玄義分」(『浄全』二・二頁上)参照。