法然上人のお言葉

前篇
第二十一章

精進しょうじん

多くの人は仏教の行き渡る世にありながら、遊びに耽り仕事に追われ、悪業を重ねるだけで、修行せずに過ごしている。

(勅伝第三十二巻)

御法語

あるいは金谷きんこくはなもてあそびて遅々ちちたるはるむなしくらし、あるいは南楼なんろうつきをあざけりて漫々まんまんたるあきいたずらにかす。

あるいは千里せんりくもせてやま鹿かせぎりてとしおくり、あるいは万里ばんりなみかびてうみいろくずりてかさね、あるいは厳寒げんかんこおりしのぎて世路せろわたり、あるいは炎天えんてんあせのごいて利養りようもとめ、あるいは妻子眷属さいしけんぞくまとわれて恩愛おんないきずながたし。あるいは執敵怨類しゅうてきおんるいいて瞋恚しんにほむらむことなし。

そうじてかくのごとくして、昼夜朝暮ちゅうやちょうぼ行住坐臥ぎょうじゅうざがときとしてむことなし。ただほしきままに、くまで三途さんず八難はちなんごうかさぬ。

しかればもんには、「一人一日いちにんいちにちうち八億四千はちおくしせんねんあり。念々ねんねんうち所作しょさ皆是みなこ三途さんずごう」とえり。

かくのごとくして、昨日きのういたずらにれぬ。今日きょうもまた、むなしくけぬ。いまいくたびからし、いくたびかかさんとする。

現代語訳

あるいは金谷きんこくはなもてあそびて遅々ちちたるはるむなしくらし、あるいは南楼なんろうつきをあざけりて漫々まんまんたるあきいたずらにかす。

ある時は〔荊洲けいしゅう金谷園きんこくえんの花をなぐさみとしてはのどかな春の日を空しく過ごし、ある時は〔武昌県〕南楼閣なんろうかくで月を詩に詠んでは長い秋の夜をいたずらに明かすのです。

あるいは千里せんりくもせてやま鹿かせぎりてとしおくり、あるいは万里ばんりなみかびてうみいろくずりてかさね、あるいは厳寒げんかんこおりしのぎて世路せろわたり、あるいは炎天えんてんあせのごいて利養りようもとめ、あるいは妻子眷属さいしけんぞくまとわれて恩愛おんないきずながたし。あるいは執敵怨類しゅうてきおんるいいて瞋恚しんにほむらむことなし。

ある時は千里の雲の彼方まで走っていっては山の鹿を捕らえて年月を送り、ある時は万里の波間を漂っては海の魚を捕らえて月日を重ね、ある時は厳寒に氷をかき分けながら世渡りし、ある時は炎天下に汗を拭いながら財物を求め、ある時は妻子や親族にまとわり付かれて情愛の絆は断ちがたいのです。ある時は仇敵きゅうてきに出会って怒りの炎の消えることがありません。

そうじてかくのごとくして、昼夜朝暮ちゅうやちょうぼ行住坐臥ぎょうじゅうざがときとしてむことなし。ただほしきままに、くまで三途さんず八難はちなんごうかさぬ。

すべてこのようにして、昼夜朝暮、立ち居起き臥し、少しの間も止むことがないのです。ただ勝手気ままに、どこまでも三途八難を招く悪業を重ねてしまいます。

しかればもんには、「一人一日いちにんいちにちうち八億四千はちおくしせんねんあり。念々ねんねんうち所作しょさ皆是みなこ三途さんずごう」とえり。

ですから、ある経文には、「人間には、一日に八億四千の思いがわき起こる。その思いの中で行うことは、みな三途へ堕ちる悪業である」とあります。

※一人一日…三途の業=道綽『安楽集』下(『浄全』一・七〇六頁下)の引く『浄度菩薩経』に基づく表現。

かくのごとくして、昨日きのういたずらにれぬ。今日きょうもまた、むなしくけぬ。いまいくたびからし、いくたびかかさんとする。

このようにして昨日も空しく夜を迎えました。今日もまた空しく朝を迎えました。このうえ、いくたび夜を迎え、いくたび朝を迎えるのでしょうか。