法然上人のお言葉

前篇
第二十五章

導師嘆徳どうしたんどく

『観経疏』は浄土宗の教えの根幹であり、善導大師は阿弥陀仏の化身である。この書によって私法然は念仏に帰依した。

(勅伝第十八巻)

御法語

しずかにおもんみれば、善導ぜんどう観経かんぎょうしょは、これ西方さいほう指南しなん行者ぎょうじゃ目足もくそくなり。しかればすなわち、西方さいほう行人ぎょうにんかならすべから珍敬ちんぎょうすべし。

なかんずく、毎夜まいやゆめうちそうありて、玄義げんぎ指授しじゅせり。そうというは、おそらくはこれ弥陀みだ応現おうげんなり。しからばうべし、このしょ弥陀みだ伝説でんぜつなりと。いかにいわん大唐だいとう相伝そうでんしてわく、「善導ぜんどうはこれ弥陀みだ化身けしんなり」と。しからばうべし、「このもんはこれ弥陀みだ直説じきせつなり」と。すでに、「うつさんとおもわんものは、もはら経法きょうぼうのごとくせよ」とえり。このことばまことなるかな。

あおぎて本地ほんじたずぬれば、四十八願しじゅうはちがん法王ほうおうなり。十劫じっこう正覚しょうがくとなえ、念仏ねんぶつたのみあり。して垂迹すいじゃくとぶらえば、専修せんじゅ念仏ねんぶつ導師どうしなり。三昧さんまい正受しょうじゅことば往生おうじょううたがいなし。本迹ほんじゃくことなりといえども、化導けどうこれいつなり。

こに貧道ひんどうむかしこのてん披閲ひえつしてほぼ素意そいさとれり。ちどころに余行よぎょうをとどめてここに念仏ねんぶつす。それより已来このかた今日こんにちいたるまで、自行じぎょう化他けた、ただ念仏ねんぶつこととす。しかあいだまれしんものには、しめすに西方さいほう通津つうしんをもてし、たまたまぎょうたずぬるものには、おしうるに念仏ねんぶつ別行べつぎょうをもてす。これをしんずるものおおく、しんぜざるものすくなし。〈已上略抄〉

念仏ねんぶつこととし、往生おうじょうこいねがわんひとしょゆるがせにすべけんや。

現代語訳

しずかにおもんみれば、善導ぜんどう観経かんぎょうしょは、これ西方さいほう指南しなん行者ぎょうじゃ目足もくそくなり。しかればすなわち、西方さいほう行人ぎょうにんかならすべから珍敬ちんぎょうすべし。

しずかに思いめぐらしますと、善導大師の『観経疏』は西方極楽への指針であり、念仏者の眼であり足であります。それゆえ西方を願う行者は、必ず尊び敬わなければなりません。

なかんずく、毎夜まいやゆめうちそうありて、玄義げんぎ指授しじゅせり。そうというは、おそらくはこれ弥陀みだ応現おうげんなり。しからばうべし、このしょ弥陀みだ伝説でんぜつなりと。いかにいわん大唐だいとう相伝そうでんしてわく、「善導ぜんどうはこれ弥陀みだ化身けしんなり」と。しからばうべし、「このもんはこれ弥陀みだ直説じきせつなり」と。すでに、「うつさんとおもわんものは、もはら経法きょうぼうのごとくせよ」とえり。このことばまことなるかな。

特に、毎夜の夢の中に僧侶が現れて、〔『観無量寿経』の〕奥深い教えを〔善導大師に〕教授したのです。僧侶というのは、おそらく阿弥陀仏の仮の姿でありましょう。それならば言うべきです。「この『観経疏』は阿弥陀仏から説き伝えられたものである」と。ましてや、偉大なる唐の国では、「善導大師は阿弥陀仏の生まれ変わりである」と伝えられています。それならば言うべきです。「この〔書の〕文言は阿弥陀仏の直説である」と。現に〔大師が自ら〕「書写しようと思う者は、専ら経典のように扱いなさい」と言っておられます。この言葉はまことにもっともです。

※なかんずく…指授せり=善導『観経疏』「散善義」(『浄全』二・七二頁上)。
※善導は…化身なり=王日休『龍舒増広浄土文りゅうじょぞうこうじょうどもん』(『浄全』六・八六七頁上)。
※写さん…せよ=善導『観経疏』「散善義」(『浄全』二・七三頁上)。
※この言、誠なるかな=「善導大師が〈『観経疏』を仏説と思え〉と言われたのは、〈自分は阿弥陀仏である〉という暗示である」との趣意。

あおぎて本地ほんじたずぬれば、四十八願しじゅうはちがん法王ほうおうなり。十劫じっこう正覚しょうがくとなえ、念仏ねんぶつたのみあり。して垂迹すいじゃくとぶらえば、専修せんじゅ念仏ねんぶつ導師どうしなり。三昧さんまい正受しょうじゅことば往生おうじょううたがいなし。本迹ほんじゃくことなりといえども、化導けどうこれいつなり。

あおいでもとの姿をたどれば、四十八願を〔立てられた〕法王(阿弥陀仏)であります。〔阿弥陀仏が〕十劫の昔に覚りを示されたことは、念仏が頼みとするに足る証拠です。ひれ伏して仮の姿をたどれば、専修念仏の導師(善導大師)であります。「三昧を体得した」というそのお言葉は、念仏往生に疑いがないことの証明です。本の姿と仮の姿との違いがあっても、教導される内容は一致しています。

※十劫正覚の唱え=阿弥陀仏の成仏以来十劫が経過していることについては『無量寿経』(『浄全』一・一二頁)、『阿弥陀経』(『浄全』一・五三頁)参照。
※三味正受の語=善導大師が『観経疏』末尾で自身の三昧発得(阿弥陀仏や極楽を見る体験)を述べられたこと。『観経疏』「散善義」(『浄全』二・七二頁上)参照。

こに貧道ひんどうむかしこのてん披閲ひえつしてほぼ素意そいさとれり。ちどころに余行よぎょうをとどめてここに念仏ねんぶつす。それより已来このかた今日こんにちいたるまで、自行じぎょう化他けた、ただ念仏ねんぶつこととす。しかあいだまれしんものには、しめすに西方さいほう通津つうしんをもてし、たまたまぎょうたずぬるものには、おしうるに念仏ねんぶつ別行べつぎょうをもてす。これをしんずるものおおく、しんぜざるものすくなし。〈已上略抄〉

そこで私法然は、以前にこの『観経疏』をよく読んで、ほぼ本旨を理解し、すぐさま他の修行をやめて、念仏に帰依しました。そのとき以来、今日に至るまで、自分の行も他者への教化も、ただ念仏のみに専念してきました。その間、まれに覚りへの渡し場を尋ねる者には、西方へ通じる渡し場を示し、たまたま行を尋ねる者には、念仏という特別の行を教えさとしました。これを信じる者は多く、信じない者は少ないのです。〈以上、『選択集』より〉

念仏ねんぶつこととし、往生おうじょうこいねがわんひとしょゆるがせにすべけんや。

念仏を専らにし、往生を求め願う人は、どうしてこの書物(『選択集』)をおろそかにできるでしょうか。できはしないのです。

※念仏を…べけんや=『勅伝』編纂者の言葉。