御法語
まことしく念仏を行じて、げにげにしき念仏者になりぬれば、よろずの人を見るに、みな我が心には劣りて、浅ましくわろければ、我が身のよきままに、「我はゆゆしき念仏者にてあるものかな。誰々にも勝れたり」と思うなり。この心をば、よくよく慎むべき事なり。
世も広く、人も多ければ、山の奥、林の中に籠り居て、人にも知られぬ念仏者の、貴くめでたき、さすがに多くあるを、我が聞かず、知らぬにてこそあれ。
されば、「我ほどの念仏者、よもあらじ」と思う、僻事なり。この思いは大憍慢にてあれば、即ち三心も欠くるなり。またそれを便りとして、魔縁の来たりて往生を妨ぐるなり。
これ、我が身のいみじくて、罪業をも滅し、極楽へも参ることならばこそあらめ、偏に阿弥陀仏の願力にて、煩悩をも除き、罪業をも消して、かたじけなく手ずから自ら極楽へ迎え取りて、帰らせまします事なり。
我が力にて往生する事ならばこそ、「我かしこし」という慢心をば起こさめ、憍慢の心だにも起こりぬれば、心行必ず誤る故に、たちどころに阿弥陀仏の願に背きぬるものにて、弥陀も諸仏も護念し給わず。さるままには、悪鬼のためにも悩まさるるなり。
返す返すも慎みて、憍慢の心を起こすべからず。あなかしこ、あなかしこ。
現代語訳
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まことしく念仏を行じて、げにげにしき念仏者になりぬれば、よろずの人を見るに、みな我が心には劣りて、浅ましくわろければ、我が身のよきままに、「我はゆゆしき念仏者にてあるものかな。誰々にも勝れたり」と思うなり。この心をば、よくよく慎むべき事なり。
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まじめに念仏を行い、いかにもそれらしい念仏者になると、多くの人を見るにつけ、みな自分の心より劣り、あきれる程ひどいので、自分をよしとする思いにまかせて、「私はなんと立派な念仏者なのだろう。だれよりも上だ」と思うようになるのです。こうした心こそ、よくよく慎むべきなのです。
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世も広く、人も多ければ、山の奥、林の中に籠り居て、人にも知られぬ念仏者の、貴くめでたき、さすがに多くあるを、我が聞かず、知らぬにてこそあれ。
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世間も広く、人も多いので、山の奥、林の中に隠れ住み、人にも知られていない念仏者で貴く素晴らしい方が、やはり多くいるのを、自分が聞かず、知らないだけのことなのです。
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されば、「我ほどの念仏者、よもあらじ」と思う、僻事なり。この思いは大憍慢にてあれば、即ち三心も欠くるなり。またそれを便りとして、魔縁の来たりて往生を妨ぐるなり。
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ですから「私ほどの念仏者は、まさかあるまい」と思うのは心得違いです。この思いは大変な思い上がりなので、つまりは三心も欠けることになるのです。またそれをよいことにして、悪魔が近づき、往生を妨げるのです。
※便り=都合のよい状態。便宜。
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これ、我が身のいみじくて、罪業をも滅し、極楽へも参ることならばこそあらめ、偏に阿弥陀仏の願力にて、煩悩をも除き、罪業をも消して、かたじけなく手ずから自ら極楽へ迎え取りて、帰らせまします事なり。
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この思い上がりも、自分が優れているために、〔自力で〕罪業をも滅し、極楽にも往生できるというなら仕方ないかもしれませんが、ひとえに阿弥陀仏が、その本願の力によって〔念仏者の〕煩悩をも除き、罪業をも消して、もったいなくも自ら極楽へ迎え取って、お帰り下さるのです。
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我が力にて往生する事ならばこそ、「我かしこし」という慢心をば起こさめ、憍慢の心だにも起こりぬれば、心行必ず誤る故に、たちどころに阿弥陀仏の願に背きぬるものにて、弥陀も諸仏も護念し給わず。さるままには、悪鬼のためにも悩まさるるなり。
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自分の力で往生するというならば、「私は勝れている」という慢心を起こしても仕方ないかもしれませんが、思い上がりの心が起こっただけで、心も行も必ず道を外れるので、たちまち阿弥陀仏の本願に背くことになり、阿弥陀仏も諸仏もお守り下さいません。そのままでは悪鬼にも悩まされるのです。
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返す返すも慎みて、憍慢の心を起こすべからず。あなかしこ、あなかしこ。
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くれぐれも慎んで、思い上がりの心を起こしてはなりません。あなかしこ。あなかしこ。
※あなかしこ=ああ恐れ多い。