法然上人のお言葉

後篇
第十三章

無比法楽むびほうらく

阿弥陀仏は本願を成就しておられるから、念仏すればいかなる人も往生できる。

(勅伝第二十五巻)

御法語

一々いちいちがんおわりに、「しからずば正覚しょうがくらじ」とちかたまえり。しかるに阿弥陀仏あみだぶつほとけたまいてよりこのかた、すでに十劫じっこうたまえり。まさるべし、誓願せいがんむなしからず。しかれば衆生しゅじょう称念しょうねんするもの一人いちにんむなしからず往生おうじょうすること。もししからずば、たれほとけたまえることしんずべき。

三宝滅尽さんぼうめつじんときなりといえども、一念いちねんすればなお往生おうじょうす。五逆深重ごぎゃくじんじゅうひとなりといえども、十念じゅうねんすれば往生おうじょうす。いかにいわん三宝さんぼうまれて五逆ごぎゃくつくらざるわれら、弥陀みだ名号みょうごうとなえんに、往生おうじょううたがうべからず。

いまこのがんえることは、まことにこれおぼろげのえんにあらず。よくよくよろこおぼしめすべし。たといまたうといえども、もししんぜざればわざるがごとし。いまふかくこのがんしんぜさせたまえり。往生おうじょううたがおぼしめすべからず。かならかならふたごころなく、よくよく御念仏候おねんぶつそうろうて、このたび生死しょうじはなれ、極楽ごくらくまれさせたまうべし。

現代語訳

一々いちいちがんおわりに、「しからずば正覚しょうがくらじ」とちかたまえり。しかるに阿弥陀仏あみだぶつほとけたまいてよりこのかた、すでに十劫じっこうたまえり。まさるべし、誓願せいがんむなしからず。しかれば衆生しゅじょう称念しょうねんするもの一人いちにんむなしからず往生おうじょうすること。もししからずば、たれほとけたまえることしんずべき。

〔阿弥陀仏が四十八の誓願を立てられたとき、〕それぞれの願の最後に「もし、この〔願いの〕通りにならなければ、〔私は〕正しい覚りを開くことはない」と誓われました。そして、阿弥陀仏は仏となられてから、すでに十劫という長い年月を過ごしておられます。まさしく知らねばなりません、誓願は空言そらごとではないのです。ですから念仏を称える人々は、一人残らず往生することができます。もしそうでなければ、〔阿弥陀仏が〕仏になられたことを誰が信じられるでしょうか。

※若し爾らずば…取らじ=『無量寿経』(『浄全』一・六一頁)。
※十劫を経給えり=『無量寿経』(『浄全』一・一二頁)、『阿弥陀経』(『浄全』一・五三頁)。前編二十五章十劫正覚の唱え」参照。

三宝滅尽さんぼうめつじんときなりといえども、一念いちねんすればなお往生おうじょうす。五逆深重ごぎゃくじんじゅうひとなりといえども、十念じゅうねんすれば往生おうじょうす。いかにいわん三宝さんぼうまれて五逆ごぎゃくつくらざるわれら、弥陀みだ名号みょうごうとなえんに、往生おうじょううたがうべからず。

仏・法・僧の三宝がことごとく滅びてしまった時代でさえ、一度ひとたびでも念仏すれば往生します。五逆という深くて重い罪を犯した人でさえ、十遍念仏すれば往生します。まして仏・法・僧の三宝がなお残る時代に生まれ、五逆の罪を犯していない私たちが、阿弥陀仏の名号を称えれば往生することを疑ってはなりません。

いまこのがんえることは、まことにこれおぼろげのえんにあらず。よくよくよろこおぼしめすべし。たといまたうといえども、もししんぜざればわざるがごとし。いまふかくこのがんしんぜさせたまえり。往生おうじょううたがおぼしめすべからず。かならかならふたごころなく、よくよく御念仏候おねんぶつそうろうて、このたび生死しょうじはなれ、極楽ごくらくまれさせたまうべし。

今この阿弥陀仏の本願に出逢えたことは、本当に並大抵の因縁ではありません。よくよくお喜びなさいませ。たとえまた、本願に出逢えたとしても、もし信じないならば、出逢わないのと同じことです。〔あなたは〕今、深くこの願を信じておられます。ご自身の往生をお疑いになってはなりません。必ず必ず二心なく、よくよくお念仏なさり、この生涯を限りに迷いの境涯を離れ、極楽にお生まれ下さいませ。