御法語
一々の願の終りに、「若し爾らずば正覚を取らじ」と誓い給えり。然るに阿弥陀仏、仏に成り給いてよりこのかた、すでに十劫を経給えり。当に知るべし、誓願虚しからず。然れば衆生の称念する者、一人も虚しからず往生する事を得。もし然らずば、誰か仏に成り給える事を信ずべき。
三宝滅尽の時なりといえども、一念すればなお往生す。五逆深重の人なりといえども、十念すれば往生す。いかに況や三宝の世に生まれて五逆を造らざる我ら、弥陀の名号を称えんに、往生疑うべからず。
今この願に遇える事は、実にこれおぼろげの縁にあらず。よくよく悦び思しめすべし。たといまた遇うといえども、もし信ぜざれば遇わざるがごとし。今深くこの願を信ぜさせ給えり。往生疑い思しめすべからず。必ず必ず二心なく、よくよく御念仏候うて、このたび生死を離れ、極楽に生まれさせ給うべし。
現代語訳
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一々の願の終りに、「若し爾らずば正覚を取らじ」と誓い給えり。然るに阿弥陀仏、仏に成り給いてよりこのかた、すでに十劫を経給えり。当に知るべし、誓願虚しからず。然れば衆生の称念する者、一人も虚しからず往生する事を得。もし然らずば、誰か仏に成り給える事を信ずべき。
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〔阿弥陀仏が四十八の誓願を立てられたとき、〕それぞれの願の最後に「もし、この〔願いの〕通りにならなければ、〔私は〕正しい覚りを開くことはない」と誓われました。そして、阿弥陀仏は仏となられてから、すでに十劫という長い年月を過ごしておられます。まさしく知らねばなりません、誓願は空言ではないのです。ですから念仏を称える人々は、一人残らず往生することができます。もしそうでなければ、〔阿弥陀仏が〕仏になられたことを誰が信じられるでしょうか。
※若し爾らずば…取らじ=『無量寿経』(『浄全』一・六一頁)。
※十劫を経給えり=『無量寿経』(『浄全』一・一二頁)、『阿弥陀経』(『浄全』一・五三頁)。前編二十五章「十劫正覚の唱え」参照。 -
三宝滅尽の時なりといえども、一念すればなお往生す。五逆深重の人なりといえども、十念すれば往生す。いかに況や三宝の世に生まれて五逆を造らざる我ら、弥陀の名号を称えんに、往生疑うべからず。
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仏・法・僧の三宝がことごとく滅びてしまった時代でさえ、一度でも念仏すれば往生します。五逆という深くて重い罪を犯した人でさえ、十遍念仏すれば往生します。まして仏・法・僧の三宝がなお残る時代に生まれ、五逆の罪を犯していない私たちが、阿弥陀仏の名号を称えれば往生することを疑ってはなりません。
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今この願に遇える事は、実にこれおぼろげの縁にあらず。よくよく悦び思しめすべし。たといまた遇うといえども、もし信ぜざれば遇わざるがごとし。今深くこの願を信ぜさせ給えり。往生疑い思しめすべからず。必ず必ず二心なく、よくよく御念仏候うて、このたび生死を離れ、極楽に生まれさせ給うべし。
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今この阿弥陀仏の本願に出逢えたことは、本当に並大抵の因縁ではありません。よくよくお喜びなさいませ。たとえまた、本願に出逢えたとしても、もし信じないならば、出逢わないのと同じことです。〔あなたは〕今、深くこの願を信じておられます。ご自身の往生をお疑いになってはなりません。必ず必ず二心なく、よくよくお念仏なさり、この生涯を限りに迷いの境涯を離れ、極楽にお生まれ下さいませ。