法然上人のお言葉

後篇
第二十三章

慈悲加祐じひかゆう

阿弥陀仏が臨終に来迎されるのは、念仏者の心が乱れないよう助力するためである。

(大胡太郎へ遣わすご返事)

御法語

まめやかに往生おうじょうこころざしありて、弥陀みだ本願ほんがんうたがわずして、念仏ねんぶつもうさんひとは、臨終りんじゅうのわろきことは、大方おおかたそうろうまじきなり。そのゆえは、ほとけ来迎らいこうたまことは、もとより行者ぎょうじゃ臨終正念りんじゅうしょうねんのためにてそうろうなり。それをこころひとはみな、「臨終正念りんじゅうしょうねんにて念仏ねんぶつもうしたらんときほとけむかたまうべきなり」とのみこころそうろうは、ほとけがんをもしんぜず、きょうもんをもこころひとにてそうろうなり。

そのゆえは、称讃浄土経しょうさんじょうどきょういわく、「ほとけ慈悲じひをもてくわたすけて、こころをしてみだらしめたまわず」とかれてそうらえば、ただのときによくよくもうしおきたる念仏ねんぶつによりて、臨終りんじゅうかならほとけ来迎らいこうたまうべし。ほとけ来迎らいこうたまうをたてまつりて、行者ぎょうじゃ正念しょうねんじゅうすともうにてそうろう

しかるに、さき念仏ねんぶつむなしくおもいなして、よしなく臨終正念りんじゅうしょうねんをのみいのひとなどのそうろうは、ゆゆしき僻胤ひがいんりたることにてそうろうなり。されば、ほとけ本願ほんがんしんぜんひとは、かねて臨終りんじゅううたがこころあるべからずとこそおぼそうらえ。ただ当時とうじもうさん念仏ねんぶつをば、いよいよ至心ししんもうすべきにてそうろう

現代語訳

まめやかに往生おうじょうこころざしありて、弥陀みだ本願ほんがんうたがわずして、念仏ねんぶつもうさんひとは、臨終りんじゅうのわろきことは、大方おおかたそうろうまじきなり。そのゆえは、ほとけ来迎らいこうたまことは、もとより行者ぎょうじゃ臨終正念りんじゅうしょうねんのためにてそうろうなり。それをこころひとはみな、「臨終正念りんじゅうしょうねんにて念仏ねんぶつもうしたらんときほとけむかたまうべきなり」とのみこころそうろうは、ほとけがんをもしんぜず、きょうもんをもこころひとにてそうろうなり。

真実に往生の志があり、阿弥陀仏の本願を疑うことなく念仏を称える人に、臨終の心が乱れることは、まったくありえないことです。そのわけは、仏が来迎されることは、そもそも念仏者を臨終に正念とさせるためだからです。それを心得ていない人はみな、「自分が臨終に正念であった上で念仏を称える時のみ、仏はお迎えになるはずだ」とばかり考えていますが、これは、仏の本願も信じることなく、経典の文言も理解していない人であります。

※ため=「目的」の意。

そのゆえは、称讃浄土経しょうさんじょうどきょういわく、「ほとけ慈悲じひをもてくわたすけて、こころをしてみだらしめたまわず」とかれてそうらえば、ただのときによくよくもうしおきたる念仏ねんぶつによりて、臨終りんじゅうかならほとけ来迎らいこうたまうべし。ほとけ来迎らいこうたまうをたてまつりて、行者ぎょうじゃ正念しょうねんじゅうすともうにてそうろう

そのわけは、『称讃浄土経』に、「阿弥陀仏は慈悲をもって〔臨終の人を〕助けて、その心が乱れないようになさる」と説かれていますので、普段よくよく称えておいた念仏によって、臨終に必ず仏は来迎されるのだからです。仏が来迎なさるのを見て、念仏者が正念に留まるという道理なのです。

※称讃浄土経=玄奘訳『称讃浄土仏摂受経』。『阿弥陀経』の異訳。
※仏…乱らしめ給わず=『浄全』一・ 一八八頁上。

しかるに、さき念仏ねんぶつむなしくおもいなして、よしなく臨終正念りんじゅうしょうねんをのみいのひとなどのそうろうは、ゆゆしき僻胤ひがいんりたることにてそうろうなり。されば、ほとけ本願ほんがんしんぜんひとは、かねて臨終りんじゅううたがこころあるべからずとこそおぼそうらえ。ただ当時とうじもうさん念仏ねんぶつをば、いよいよ至心ししんもうすべきにてそうろう

ところが常日頃の念仏を無意味だと思いこんで、根拠もなく臨終の正念だけを祈る人などがありますが、これは大変な考え違いに陥っていることになります。ですから、仏の本願を信じる人は、常日頃から臨終〔の正念〕を疑う心があってはならないと思われます。ただ、その時その時に称える念仏を、ますます真心をこめて称えるべきなのです。