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	<title>浄土宗開宗850年特別連載 &#8211; 浄土宗総本山 知恩院</title>
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	<description>浄土宗 総本山知恩院のホームページです。</description>
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		<title>「引き継がれる慈しみの道」</title>
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				<pubDate>Thu, 29 Feb 2024 23:52:42 +0000</pubDate>
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								<content:encoded><![CDATA[<p>　四月八日は釈尊の、前日の七日は法然上人のお誕生日です。釈尊は誕生されると七歩歩まれ「天上天下唯我独尊」（天上天下にただ我ひとり尊し）と言われた、と伝えられています。お経ではその後に「かならず一切衆生の生老病死の苦を度さん」（きっとすべての人々を命に付きまとう老いや病や死の苦しみから解放してあげよう）とあります。つまりこの世に生まれた者が、老病死などの避けられない不安に苦しめられて一生を終わるのではなく、そこを乗り越えて行く力が得られるように導いてあげるのだ、という慈しみの言葉が続くのです。それはせっかく頂いた命を受け身になって過ごすのではなく、それぞれが前向きに歩める道を尋ねる。そこに人の尊さがあること、そしてそのための道しるべとなる教えを尊び重んじるべきことを示唆しています。法然上人が説かれたすべての人がお念仏によって歩むことのできる浄土への道も、釈尊に始まるそのような慈しみの道の引き継ぎなのです。</p>
<p>　日本語のマナビ（学び）はマネビ（真似び）に由来すると言われます。法然上人はさまざまな仏教が日本に伝わってきた道をふりかえり、「浄土を欣う人はこの宗の祖師を学ぶべきなり」（苦しみや悩みにほんろうされることのない安らかな世界を願う人は、浄土の教えを広めたお祖師の道を学ぶべきである）と語っておられます。</p>
<p>　そのお祖師の一人、中国北魏の曇鸞大師は初め仏教を学んでいたのですが、病を得て命に不安を覚え、仏教を捨て長生不死の教え（仙経）を学びます。しかしインドから仏典を伝えるために来られた菩提流支三蔵から、長生きをしてもその中身が苦悩に付きまとわれるものであるなら、苦の種が尽きる時がないではないかと、命の質の大切さを教えられます。そこで浄土のお経を授かり、南無阿弥陀仏の名号という宝珠を心に投げ入れれば、心の濁りが静まり浄土に生まれることができるという教えを広めるのです。</p>
<p>　その曇鸞大師の教えに共鳴した初唐の道綽禅師は、仏法がかろうじて残る末法の世の人に広く救いの門戸を開いたのは、南無阿弥陀仏の名号を称える教え（浄土門）であるとし、木の実でお数珠を作り、それを人々に施してお念仏を広められたのです。道綽禅師はお数珠でお念仏の数をとり、少しでも多くお念仏をする身となれるよう工夫をされたのです。</p>
<p>　その道綽禅師を師とされた善導大師は、立ち居起き臥しの姿勢や、時間の長短には関係なく、心をこめてお念仏を相続すれば、みほとけとの間に親しい縁、近しい縁、浄土に迎えられる勝れた縁を結んで行くことが出来ると説かれたのです。法然上人はそのような善導大師の教えを導きとして浄土宗を開かれ、日々の衣食住の所作動作を、みほとけと向き合いつながるお念仏と共にする、そういう日暮らしをすすめられたのです。</p>
<p>　私たちは母胎に居る時から、温かくて信頼ができ安心できる、そういう言葉を乗せた声に包まれて育ちました。それが心を持った人が健全に育つ自然な道筋（法然道理）なのです。法然上人は南無阿弥陀仏を、みほとけが私たちを安穏の浄土に迎えるために〈定め置かれた名号〉だと語られました。阿弥陀仏が慈しみの心で準備された名号（言葉）、それを乗せたお念仏の声でわが身を包み、頂いた命を「いかにもいかにも育み助くべし」（ぜひとも、なんとしてでも、育み支えていくように）、法然上人はそういう日々の歩み方と励ましを私たちに伝えられたのです。</p>

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<a href='https://www.chion-in.or.jp/kacho/5538/attachment/%e5%8b%a2%e8%87%b3%e8%8f%a9%e8%96%a9/'><img width="196" height="300" src="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads//2024/02/勢至菩薩-196x300.jpg" class="attachment-medium size-medium" alt="" decoding="async" loading="lazy" srcset="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2024/02/勢至菩薩-196x300.jpg 196w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2024/02/勢至菩薩-670x1024.jpg 670w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2024/02/勢至菩薩-768x1174.jpg 768w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2024/02/勢至菩薩.jpg 785w" sizes="(max-width: 196px) 100vw, 196px" /></a>

<p>※「法然上人の歩まれた道」は、今号で最終回となります。 ご愛読ありがとうございました。</p>
<p style="text-align: right;">知恩院浄土宗学研究所主任　藤堂 俊英</p>
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		<issue>法然上人の歩まれた道⑳</issue>
	</item>
		<item>
		<title>「念仏する所が私の遺跡」</title>
		<link>https://www.chion-in.or.jp/kacho/5496/</link>
				<pubDate>Thu, 01 Feb 2024 00:11:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[chionin]]></dc:creator>
		
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				<description><![CDATA[　釈尊は出家をする前の若き日、老人に出会っては若さのおごりが消え、病人に出会っては健康のおごりが消え、死者に出会っては命のおごりが消えたと伝えられています。おごりが消えれば見えてくるこの世の真実の姿をわが身に照らし合わせ [&#8230;]]]></description>
								<content:encoded><![CDATA[<p>　釈尊は出家をする前の若き日、老人に出会っては若さのおごりが消え、病人に出会っては健康のおごりが消え、死者に出会っては命のおごりが消えたと伝えられています。おごりが消えれば見えてくるこの世の真実の姿をわが身に照らし合わせ、頂いた命の使い道（使命）を尋ねる、そこに仏教の出発点があります。</p>
<p>　伝記によれば、そのような道を歩まれた法然上人が大きな病を体験されたことが二度ありました。</p>
<p>　一度は老いの道にさしかかった六十六歳の時で、そのころ「没後遺誡文」という遺言状を書いておられますから、病状がよほど重かったものと思われます。加齢が進む中での病の体験は、心を一層研ぎ澄ませる機会となります。そのころ上人はお念仏を通して浄土の世界を感見されたり、夢中で善導大師と出会う体験をされたり、病後の体調を心配した帰依者の九条兼実からの要請で、主著となる『選択集』を撰述されています。</p>
<p>　もう一度は、一部の門弟たちの傍若無人の振る舞いが原因で念仏停止の訴えが相次いで起こった七十三歳の時です。その翌々年には上皇の逆鱗に触れた門弟の行為の責任を問われ四国へ流罪となり、五年ほど都を離れられます。その出来事は老いの身には重い負担であったに違いありません。</p>
<p>　法然上人のご法語には、いつ訪れるか分からない命の終わりへの心構えを説くものが見られます。例えば</p>
<div class="box2">
<p>「念仏の功を積むべきなり。習い先よりあらざれば、臨終正念も難し。常に臨終のおもいをなして、臥すごとに十念をとなうべし。されば寝ても覚めても忘るることなかれといえり」<br />
（お念仏の功徳を積むべきです。そういう日頃の習慣がなければ、最期になって往生への確かな念いを持てなくなります。いつもこれが最期だという念いを懐いて、眠りにつくたびにお十念を称えるようにしなさい。だから眠る時も目覚めている時も、そのことを忘れないようにというのです）</p>
</div>
<p>とか、</p>
<div class="box2">
<p>「阿弥陀仏と十声となえてまどろまん 永き眠りになりもこそすれ」<br />
（南無阿弥陀仏と十声のお念仏を称えて眠るようにしよう。再び眼を開くことのない永い眠りになるかもしれないのだから）</p>
</div>
<p>という御歌も詠まれています。このようにお念仏を命の終わりへのまなざしの元にすすめる教えは、その後、二祖聖光上人や三祖良忠上人によって念死念仏という言葉で受け継がれ、それが往生浄土を願う心を確かなものにする用心として伝えられていきます。</p>
<p>　流罪が許され帰洛した翌年、齢八十になられた法然上人は、老衰のために食欲は減退し、お念仏の声と往生についての話以外は口になさらず、眠りの間も舌と口は絶えず動いていたとのことです。善導大師は人々をあまねく救おうとする阿弥陀仏の本願を、釈尊が末法の世に残された遺跡であると語られました。法然上人は終末に高弟信空上人からご入滅後の遺跡について問われたのに対し、本願によって選ばれたお念仏をする所が私の遺跡であると答えておられます。</p>
<p>　法然上人はご臨終に、みほとけの本願の誓いどおり、浄土からのお迎えが現れたことを語られ、建暦二年（一二一二）正月二十五日、安らかに往生の本懐を遂げられたのです。ご生涯をお慈悲に縛られ、あらゆる人々に救いの手を差しのべられた釈尊のお歳と同じく、法然上人も誰もがお念仏によって救われるという阿弥陀仏の平等のお慈悲を広め、春秋八十のご生涯を閉じられたのです。</p>
<p style="text-align: right;">知恩院浄土宗学研究所主任　藤堂 俊英</p>
<div id="attachment_5497" style="width: 1034px" class="wp-caption alignnone"><img aria-describedby="caption-attachment-5497" decoding="async" src="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads//2024/01/『法然上人行状絵図』巻三十七段五-1024x179.jpg" alt="" width="1024" height="179" class="size-large wp-image-5497" srcset="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2024/01/『法然上人行状絵図』巻三十七段五-1024x179.jpg 1024w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2024/01/『法然上人行状絵図』巻三十七段五-300x53.jpg 300w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2024/01/『法然上人行状絵図』巻三十七段五-768x134.jpg 768w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2024/01/『法然上人行状絵図』巻三十七段五.jpg 1200w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /><p id="caption-attachment-5497" class="wp-caption-text">浄土からのお迎えを仰がれる法然上人（『法然上人行状絵図』巻三十七）</p></div>
<p style="text-align: right;"><a href="https://www.chion-in.or.jp/kacho/5538/" class="button st_line arrow">第20回「引き継がれる慈しみの道」</a></p>
]]></content:encoded>
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		<issue>法然上人の歩まれた道⑲</issue>
	</item>
		<item>
		<title>「二尊のあわれみに応える書」</title>
		<link>https://www.chion-in.or.jp/kacho/5446/</link>
				<pubDate>Mon, 01 Jan 2024 00:00:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[chionin]]></dc:creator>
		
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								<content:encoded><![CDATA[<p>　『黒谷上人語灯録』は三祖良忠上人の高弟了恵上人がまとめられた法然上人の語録です。黒谷は比叡山にある法然上人の修行の故地、語灯は言葉の灯火のことですから、その書名には法然上人が黒谷での長い修行を経てお心に灯された教えの灯火、という意味が込められています。了恵上人はその灯火が、多くの人々の心に点灯され、受け継がれて行くことを願い、法然上人語録を編集されたのです。</p>
<p>　その中に「御誓言の書」（釈迦・弥陀二尊に誓われた書）という書名を与えられた小篇があります。これがのちに「一枚起請文」と呼ばれるようになります。その本文が終わった後には、「これは御自筆の書なり。勢観聖人にさづけられき」という編者の注記がありますから、この書が法然上人のお傍でいつもお世話をされていた源智上人に授けられたものであることが分かります。</p>
<p>　伝記『法然上人行状絵図』によれば、それは法然上人の最期が近くなった折に、源智上人が形見にとお願いをして頂かれたもので、「一枚消息」と呼ばれています。『黒谷上人語灯録』にはもう一つ、二祖聖光上人が伝えるほぼ同文のものが収録されています。</p>
<p>　このお二人の高弟によって伝えられた小篇は、南北朝・室町時代の七祖聖冏上人や八祖聖聡上人の頃から、今日使われる「一枚起請（文）」という名で呼ばれるようになります。一枚とは一紙に書かれた手紙や文書のこと、起請文とは自分の行いや言葉に、うそ偽りのないことを神仏に誓う文書のことで、平安時代の末ごろから現れ、その誓いに反するようであれば神仏の罰を受けることや、末尾に署名判と年月日を記す形式のものが見られるようになります。</p>
<p>　江戸時代の義山上人は「一枚起請文」を唐笠（傘）の譬えを使い、</p>
<div class="box2">
<p>「から笠大なりとて、はたまわりを切り捨てることにはあらざるなり。すぼめて小さくするなり。然ればひろげたるが選択集、すぼめたるが一枚起請なり」<br />
（傘が開いたままで大きいからといって周囲を切り捨てたりはしない。すぼめて小さくするのである。だから大きく広げたのが選択集であり、小さくすぼめたのが一枚起請文である）</p>
</div>
<p>と説明されています。</p>
<p>　阿弥陀仏が人々を苦しみから救うために発した四十八の願いを説く『無量寿経』には、上中下、どのような根性の者でも一途に（一向に）念仏をすれば、浄土に往生することが出来ると説かれています。またお経の最後には、将来、たとえ他のお経の教えが滅ぶことがあったとしても、釈尊があわれみ（慈悲哀愍）を以って、このお経をさらに百年この世に留めると説かれています。</p>
<p>　釈迦・弥陀二尊が私たちのために準備された救いの道は、散り乱れやすい心を静めてみほとけを念ずる観念の念仏でもなく、みほとけを念ずる大事なわけを師から聞いたり、仏典をひもとき理解して申す念仏でもない。ただ南無阿弥陀仏と称える声の念仏を励みに、二尊が示された一筋の道を疑いなく迷いなく一途に歩めば、みほとけの御胸に叶う心も、仏道を歩む姿勢や態度も、すぼめた傘が開いて行くように具わり、浄土に迎えられるにふさわしい身の上になれる。その他に何か奥深い秘蔵の教えでもあるように思うなら、それは二尊のあわれみから外れ、阿弥陀仏の願いから漏れてしまう。だから小知を振りまわさず、初心者のごとき身になって、二尊のみこころにつながる念仏を一途に申せばよい。</p>
<p>　法然上人が長い求道の歩みを経て、二尊のあわれみに応えるお心を一紙に結晶させ残された御文、それが一枚起請文なのです。</p>
<p style="text-align: right;">知恩院浄土宗学研究所主任　藤堂 俊英</p>
<div id="attachment_5447" style="width: 1034px" class="wp-caption alignnone"><img aria-describedby="caption-attachment-5447" decoding="async" loading="lazy" src="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads//2023/12/『法然上人行状絵図』巻二十一-1024x607.jpg" alt="" width="1024" height="607" class="size-large wp-image-5447" /><p id="caption-attachment-5447" class="wp-caption-text">机に向かって消息をしたためる法然上人（『法然上人行状絵図』巻二十一）</p></div>
<p style="text-align: right;"><a href="https://www.chion-in.or.jp/kacho/5496/" class="button st_line arrow">第19回「念仏する所が私の遺跡」</a></p>
]]></content:encoded>
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		<issue>法然上人の歩まれた道⑱</issue>
	</item>
		<item>
		<title>「機―教えの糸を織る人」</title>
		<link>https://www.chion-in.or.jp/kacho/5374/</link>
				<pubDate>Fri, 01 Dec 2023 00:00:59 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[chionin]]></dc:creator>
		
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				<description><![CDATA[　仏教では人と向き合うことを対人とは言わずに対機と言います。一般に「機」は織機などの機械や、「機会」のように適切な時を表すのに使われます。例えば織機にタテ糸（経）・ヨコ糸（緯）・人の技という条件を丁寧にそろえてやれば、ど [&#8230;]]]></description>
								<content:encoded><![CDATA[<p>　仏教では人と向き合うことを対人とは言わずに対機と言います。一般に「機」は織機などの機械や、「機会」のように適切な時を表すのに使われます。例えば織機にタテ糸（経）・ヨコ糸（緯）・人の技という条件を丁寧にそろえてやれば、どんな織機も布を織るという本来のはたらきを発揮します。また何かをするのに、適切な機会をとらえてやれば、事をスムーズに運ぶことができます。</p>
<p>　仏教では「機」を教えに触れることによって発揮される能力、あるいは教えを聞く人、という意味で使います。聞く耳をもった人に適切な言葉や機会を選んで教えを伝えれば、その人は教えの糸を暮らしの中に織り込む能力を発揮することができます。そういう人との向き合い方を対機というのです。</p>
<p>　ブッダのお説法は、まずは会話を通して相手の心をほぐし、聞く準備ができた機会をとらえて本筋の話に入る、そういう手順を踏んでなされていました。それを次第説法と呼んでいます。社会学者の見田宗介氏はブッダの次第説法を、まずは自分をオープンにして相手に与えるギビング、次に言葉のキャッチボールを通して相手の心に触れて行くタッチング、その準備ができたところで本筋の話に入るティーチングという三段階を踏まえてなされていたとみて、そこに古代の高い教育的意識をうかがうことが出来ると指摘しています。</p>
<p>　仏教詩人のマートリチェータはブッダの徳をたたえる詩『百五十讃』の中で、「あなたは問われて答えない時もあったし、わざわざ出向いて語りかけたこともある。聞く気持ちを起こさせてから語りかけたこともあった。あなたは口を開く時機と相手を知っていたのだ」（奈良康明訳）と次第説法、対機説法の徳をたたえています。</p>
<div id="attachment_5376" style="width: 1034px" class="wp-caption alignnone"><img aria-describedby="caption-attachment-5376" decoding="async" loading="lazy" src="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads//2023/11/人々に教えを説かれる法然上人（『法然上人行状絵図』巻三十四）-1024x404.jpg" alt="" width="1024" height="404" class="size-large wp-image-5376" srcset="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/11/人々に教えを説かれる法然上人（『法然上人行状絵図』巻三十四）-1024x404.jpg 1024w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/11/人々に教えを説かれる法然上人（『法然上人行状絵図』巻三十四）-300x119.jpg 300w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/11/人々に教えを説かれる法然上人（『法然上人行状絵図』巻三十四）-768x303.jpg 768w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/11/人々に教えを説かれる法然上人（『法然上人行状絵図』巻三十四）.jpg 1200w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /><p id="caption-attachment-5376" class="wp-caption-text">人々に教えを説かれる法然上人（『法然上人行状絵図』巻三十四）</p></div>
<p>　法然上人も「どのみほとけも出会いの縁を生かし、向き合う相手の教えを聞く能力を推し量かり（機をはかり）、数えきれない人々に導きの手を差しのべてきた。そのご縁を蒙った人は、誰もが救いにあずかることが出来た」（三部経釈）と語っておられます。</p>
<p>　仏教には八万四千の法門と言われるようにたくさんの教えがあります。法然上人はどれも勝れた教えであるけれども、浄土の教えは「機をはからう」（要義問答）、つまり釈尊のお説法の心である、さまざまな人々と向き合う姿勢を大切にするところに特色があると語られています。だからお念仏はあらゆる人々を利益する（万機普益）教えと言われるのです。</p>
<p>　ところで法然上人のご法語には、お手紙（消息）や問答体のものが幾つも残っています。それは上人がさまざまな人と向き合い、応答する機会を大切にしておられたことを物語っています。例えば『一百四十五箇条問答』では、お念仏に関することだけでなく、衣食住に関する素朴な質問にも答えておられます。吉田兼好の『徒然草』にも</p>
<div class="box2">
<p>「ある人、法然上人に念仏の時、眠りにおかされて行を怠り侍ること、いかがしてこの障りをやめはべらんと申しければ、目の覚めたらんほど念仏し給へと答へられたりける。いと尊かりけり」（第三十九段）</p>
</div>
<p>とあります。つまり、お念仏をしていて眠くなったらどうしたらよいでしょうかと聞かれると、目が覚めている間にお念仏をすればよいと答えられたが、それは誠に尊いことだというのです。ここにもお念仏の教えを、時と機に合わせ大らかに語る法然上人の対機の姿勢をみることができます。</p>
<p style="text-align: right;">知恩院浄土宗学研究所主任　藤堂 俊英</p>
<div id="attachment_5375" style="width: 627px" class="wp-caption alignnone"><img aria-describedby="caption-attachment-5375" decoding="async" loading="lazy" src="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads//2023/11/往生の用心についての質問に返信を書く法然上人（『法然上人行状絵図』巻二十二）-1024x664.jpg" alt="" width="617" height="400" class="wp-image-5375" srcset="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/11/往生の用心についての質問に返信を書く法然上人（『法然上人行状絵図』巻二十二）-1024x664.jpg 1024w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/11/往生の用心についての質問に返信を書く法然上人（『法然上人行状絵図』巻二十二）-300x195.jpg 300w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/11/往生の用心についての質問に返信を書く法然上人（『法然上人行状絵図』巻二十二）-768x498.jpg 768w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/11/往生の用心についての質問に返信を書く法然上人（『法然上人行状絵図』巻二十二）.jpg 1200w" sizes="(max-width: 617px) 100vw, 617px" /><p id="caption-attachment-5375" class="wp-caption-text">往生の用心についての質問に返信を書く法然上人（『法然上人行状絵図』巻二十二）</p></div>
<p style="text-align: right;"><a href="https://www.chion-in.or.jp/kacho/5446/" class="button st_line arrow">第18回「二尊のあわれみに応える書」</a></p>
]]></content:encoded>
											<imageurl>https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads//2023/11/往生の用心についての質問に返信を書く法然上人（『法然上人行状絵図』巻二十二）-1024x664.jpg</imageurl>
		<issue>法然上人の歩まれた道⑰</issue>
	</item>
		<item>
		<title>「逆縁も大悲を伝える道」</title>
		<link>https://www.chion-in.or.jp/kacho/5345/</link>
				<pubDate>Wed, 01 Nov 2023 00:23:42 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[chionin]]></dc:creator>
		
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				<description><![CDATA[　あらゆる人々に門戸を開いた法然上人の教えが世間に広まって行った頃、上人の道に災難（法難）がふりかかります。それは門人の中に師の教えを曲解し、勝手気ままに振る舞う者が現れたために、他宗からの厳しい非難を招き、その責任が法 [&#8230;]]]></description>
								<content:encoded><![CDATA[<p>　あらゆる人々に門戸を開いた法然上人の教えが世間に広まって行った頃、上人の道に災難（法難）がふりかかります。それは門人の中に師の教えを曲解し、勝手気ままに振る舞う者が現れたために、他宗からの厳しい非難を招き、その責任が法然上人に向けられたのです。</p>
<p>　元久元年（一二〇四）、比叡山の僧たちは一宗の首席である座主の真性に念仏の禁止を訴え出ます。事の次第を聞かれた法然上人は、門人の行動を正す「七箇条起請文」（七箇条制誡ともいう）を作り、「それでもなおこれにそむく者は、私の門人ではない、魔につき従う者だ。もう私の草庵に来てはならない」と厳しく戒めます。そして多くの門人と誓約の署名をして座主に提出したのです。</p>
<p>　七か条の戒めは次のようなものです。</p>
<div class="box2">
<p>（一）他宗の教えを学びもせずに中傷したり、阿弥陀仏以外の仏やボサツを誹謗しないこと。<br />
（二）無知な人が智者や信仰を異にする人に好んで議論を挑んではならない。<br />
（三）信仰を異にする人に対し、愚痴や偏見から転向をすすめたり、むやみに嫌ったりあざ笑ったりしないこと。<br />
（四）念仏の教えには守るべき戒はないと言って、専ら飲酒や婬貪や食肉をすすめ、戒を守る人は弥陀の本願に疎い人だと決めつけたり、弥陀の本願を頼む人は造悪を恐れることはない、などと説いてはならない。<br />
（五）思慮分別のない無知の人が、仏法をふまえずに師の教えではないことを勝手に語ったり、みだりに議論をもちかけて智者に笑われたり、愚者を混乱させてはならない。<br />
（六）浅識で未熟な者が説法を好み、正しい教えを知らないのに邪法を説いて無知な人々を教化してはならない。<br />
（七）仏法ではない邪法を説いて、それが正しい法であり、師の教えであるなどと偽ってはならない。</p>
</div>
<p>　この誓約により危機は回避されたのですが、翌元久二年には、南都興福寺の僧たちが、法然上人が弘めている教えには過失があるとし、八つの宗派が心を同じくしてその停止を求めた「興福寺奏状」（全九条）を朝廷に提出します。この時は上人の本懐に背く門弟の偏執に過失があるとして念仏の停止には至らず、上人には直接危難が及ばなかったのです。しかし仏教界からは専修念仏への批判が次々に起こるようになったのです。</p>
<p>　さらに翌年の建永元年（一二〇六）には、後鳥羽上皇が熊野へ参詣の不在中に、門弟の住蓮と遵西が開いた別時念仏や阿弥陀仏を昼夜にわたって礼拝し讃嘆する法会（六時礼讃）に、上皇に仕えていた女房の松虫・鈴虫が参詣し、帰依の念の余り剃髪出家してしまいます。帰洛してそれを聞き及んだ上皇は激怒し、翌年、住蓮と遵西は死罪、七十五歳の法然上人は四国に、門弟も各地に流罪になるのです。</p>
<div id="attachment_5351" style="width: 1034px" class="wp-caption alignnone"><img aria-describedby="caption-attachment-5351" decoding="async" loading="lazy" src="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads//2023/10/法然上人が流罪となり別れを悲しむ人々（『法然上人行状絵図』巻三十三）-1024x321.jpg" alt="" width="1024" height="321" class="size-large wp-image-5351" srcset="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/10/法然上人が流罪となり別れを悲しむ人々（『法然上人行状絵図』巻三十三）-1024x321.jpg 1024w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/10/法然上人が流罪となり別れを悲しむ人々（『法然上人行状絵図』巻三十三）-300x94.jpg 300w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/10/法然上人が流罪となり別れを悲しむ人々（『法然上人行状絵図』巻三十三）-768x241.jpg 768w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/10/法然上人が流罪となり別れを悲しむ人々（『法然上人行状絵図』巻三十三）.jpg 1200w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /><p id="caption-attachment-5351" class="wp-caption-text">法然上人が流罪となり別れを悲しむ人々（『法然上人行状絵図』巻三十三）</p></div>
<p>　それでも上人はその逆縁を、お念仏の教えを伝え弘める機縁と捉えて配所に赴き、その途上で多くの人々を教化されたのです。おそらく法然上人のお心は、西方指南の書と仰がれた善導大師の『観経疏』に出る、「もし一人の苦を捨て生死を出づる者を得れば、これを真に仏恩に報ずと名づく」（みほとけの大悲の教えを説き、それを聞いた者が、もし一人でも苦しみを離れ、迷いの世界をのりこえることができれば、それが真にみほとけのご恩に報いることになる）というお心とつながっていたのでしょう。承元元年（一二〇七）には勅免が出たものの、すぐには帰洛できず、山岳修行の山にある勝尾寺（大阪府箕面市）に四年ほど止住された後、ようやく今の知恩院の地に戻られ、最晩年の月日を過ごされるのです。</p>
<p style="text-align: right;">知恩院浄土宗学研究所主任　藤堂 俊英</p>
<div id="attachment_5350" style="width: 1034px" class="wp-caption alignnone"><img aria-describedby="caption-attachment-5350" decoding="async" loading="lazy" src="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads//2023/10/配所に向かう途上でお説法される法然上人（『法然上人行状絵図』巻三十四）-1024x236.jpg" alt="" width="1024" height="236" class="size-large wp-image-5350" srcset="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/10/配所に向かう途上でお説法される法然上人（『法然上人行状絵図』巻三十四）-1024x236.jpg 1024w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/10/配所に向かう途上でお説法される法然上人（『法然上人行状絵図』巻三十四）-300x69.jpg 300w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/10/配所に向かう途上でお説法される法然上人（『法然上人行状絵図』巻三十四）-768x177.jpg 768w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/10/配所に向かう途上でお説法される法然上人（『法然上人行状絵図』巻三十四）.jpg 1200w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /><p id="caption-attachment-5350" class="wp-caption-text">配所に向かう途上でお説法される法然上人（『法然上人行状絵図』巻三十四）</p></div>
<p style="text-align: right;"><a href="https://www.chion-in.or.jp/kacho/5374/" class="button st_line arrow">第17回「機―教えの糸を織る人」</a></p>
]]></content:encoded>
											<imageurl>https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads//2023/10/s法然上人が流罪となり別れを悲しむ人々（『法然上人行状絵図』巻三十三）-1024x684.jpg</imageurl>
		<issue>法然上人の歩まれた道⑯</issue>
	</item>
		<item>
		<title>「大原－聖（ひじり）と仏教音楽の里」</title>
		<link>https://www.chion-in.or.jp/kacho/5298/</link>
				<pubDate>Sun, 01 Oct 2023 00:00:30 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[chionin]]></dc:creator>
		
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				<description><![CDATA[　法然上人が修行をされた延暦寺西塔黒谷にある青龍寺の位置は、現在の行政区分では京都市左京区八瀬秋元町になっています。比叡山の西麓にある黒谷をさらに西に下り、日本海へ通ずる街道に出て数キロ北上すると大原に至ります。大原は平 [&#8230;]]]></description>
								<content:encoded><![CDATA[<p>　法然上人が修行をされた延暦寺西塔黒谷にある青龍寺の位置は、現在の行政区分では京都市左京区八瀬秋元町になっています。比叡山の西麓にある黒谷をさらに西に下り、日本海へ通ずる街道に出て数キロ北上すると大原に至ります。大原は平安時代中頃から聖（隠遁僧）たちが集まる別所と言われる静寂な里でした。</p>
<p>　法然上人の黒谷での師であった叡空上人が師事した良忍上人（一〇七二〜一一三二）も比叡山で修行された後この大原に下り、一人が唱えるお念仏の功徳が他の人にも融通され、共に往生を願う融通念仏という教えを弘め、融通念仏宗が起こります。また良忍上人はふしを付けて読経やお念仏をする声明（インドでは音声や言語の学問を意味していた）という仏教音楽を弘めます。</p>
<p>　大原にはそれ以前にも伝教大師最澄の弟子で、遣唐使と共に唐に渡り仏教を学んだ慈覚大師円仁（七九四〜八六四）が、文殊ボサツの霊山として知られる五台山から伝えた声明がありました。それはゆるやかな曲調で阿弥陀経や念仏を唱えるもので、引声阿弥陀経、引声念仏あるいは不断念仏などと呼ばれています。中国での声明は山東省の魚山から起こったといわれるところから、勝林院や三千院の辺りも魚山と呼ばれます。ちなみにこの声明が後にご詠歌をふくめ、朗詠、浄瑠璃、謡曲、長唄、清元など、日本音楽に大きな影響を及ぼすのです。</p>
<p>　三千院の境内にある往生極楽院（ご本尊は来迎の姿をした阿弥陀三尊像）の南と北を流れる川は、仏教音楽の音律の用語である呂と律にちなんで呂川、律川と呼ばれています。北の律川の辺りにあった龍禅院におられた天台宗の顕真和上は、三千院のすぐ傍にある勝林院で不断念仏を行っておられました。法然上人は『選択集』を撰述される十年ほど前、その顕真和上からの要請で、後に「大原問答」と呼ばれる、お念仏をめぐる高僧がたとの問答に臨まれました。開催場所は龍禅院とも勝林院とも言われています。その出来事は善導大師の教えを指南とする法然上人のお念仏が、聖たちの間に広まって行く機縁になったと言われています。</p>
<p>　ところで大原の里は秋の紅葉で知られています。江戸時代に始まった法然上人二十五霊場の第二十一番は大原勝林院で、そこに当てられているのが</p>
<div class="box2">
<p>「阿弥陀仏に染むる心の色に出でば　秋の梢のたぐいならまし」</p>
<p>（お念仏で阿弥陀仏に染まった心を色に表したとしたら、秋の紅葉のようであろう）</p>
</div>
<p>という御歌です。私たちの心は何かに染まりやすく出来ています。同じ染まるのであれば、貪りや怒りや愚痴の煩悩に染まるのではなく、紅葉のように、誰もが和み喜び合える、そうした心の染め方が望まれます。それは心の濁りを浄化して行くものこそが、この世で最も勝れたものである（勝義有）という大乗仏教の教えに由来するものです。</p>
<p>　二祖聖光上人は「よくよく極楽を願い、よくよく阿弥陀仏を心に染めたならば、自然に阿弥陀仏のみ胸にかなう心が具わってくる」と語っておられます。また江戸時代の湛澄上人の『空花和歌集』には、この御歌は阿弥陀仏への信心の深まりを詠まれた御歌であり、「染める」とは、「いつも極楽を念じて、時と所とを選ばず、ただ阿弥陀仏を思い、阿弥陀仏の本願を思い、南無阿弥陀仏の名号を思い、阿弥陀仏のお姿を思い、摂取不捨の光明を思い、あるいはお説法を聞き、あるいはみずからお経をひらいて読む。それを片時も忘れず、捨てないことだ」と解説しておられます。</p>
<p style="text-align: right;">知恩院浄土宗学研究所主任　藤堂 俊英</p>
<div id="attachment_5299" style="width: 1210px" class="wp-caption alignnone"><img aria-describedby="caption-attachment-5299" decoding="async" loading="lazy" src="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads//2023/09/お念仏をめぐる問答が行われた大原勝林院（『法然上人行状絵図』巻十四）.jpg" alt="" width="1200" height="297" class="size-full wp-image-5299" srcset="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/09/お念仏をめぐる問答が行われた大原勝林院（『法然上人行状絵図』巻十四）.jpg 1200w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/09/お念仏をめぐる問答が行われた大原勝林院（『法然上人行状絵図』巻十四）-300x74.jpg 300w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/09/お念仏をめぐる問答が行われた大原勝林院（『法然上人行状絵図』巻十四）-1024x253.jpg 1024w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/09/お念仏をめぐる問答が行われた大原勝林院（『法然上人行状絵図』巻十四）-768x190.jpg 768w" sizes="(max-width: 1200px) 100vw, 1200px" /><p id="caption-attachment-5299" class="wp-caption-text">お念仏をめぐる問答が行われた大原勝林院（『法然上人行状絵図』巻十四）</p></div>
<p style="text-align: right;"><a href="https://www.chion-in.or.jp/kacho/5345/" class="button st_line arrow">第16回「逆縁も大悲を伝える道」</a></p>
]]></content:encoded>
											<imageurl>https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads//2023/09/sお念仏をめぐる問答が行われた大原勝林院（『法然上人行状絵図』巻十四）-1024x768.jpg</imageurl>
		<issue>法然上人の歩まれた道⑮</issue>
	</item>
		<item>
		<title>「お念仏のこころを詠まれた歌」</title>
		<link>https://www.chion-in.or.jp/kacho/5206/</link>
				<pubDate>Fri, 01 Sep 2023 00:13:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[chionin]]></dc:creator>
		
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				<description><![CDATA[　法然上人の語録や伝記、また勅撰和歌集には、上人が詠まれた和歌が伝えられています。江戸時代には上人ゆかりの寺院を巡礼する霊場めぐりが起こります。そのためにつくられた案内記には、各霊場におもに法然上人の御歌が一首ずつ当てら [&#8230;]]]></description>
								<content:encoded><![CDATA[<p>　法然上人の語録や伝記、また勅撰和歌集には、上人が詠まれた和歌が伝えられています。江戸時代には上人ゆかりの寺院を巡礼する霊場めぐりが起こります。そのためにつくられた案内記には、各霊場におもに法然上人の御歌が一首ずつ当てられています。</p>
<p>　江戸時代の湛澄上人は『空花和歌集』という法然上人の御歌の解説書を著しています。序文には</p>
<div class="box2">
<p>「やまと歌は人の心をたねとして、咲きにおう詞の花なれば、その風体その人に似るべし。ここにわが法然上人は往きやすき御法の門を開き給うのみにあらず、至り難き風雅の境にも立ち入らせ給えり。つらつらその詠歌を見るに、いとよく上人に似たり。実相そなわりて、おのづから世の教誡となり、人をして幽玄ならしむる徳あり」</p>
<p>（和歌は詠む人の心を種とし、人柄の香りを伴って咲く言葉の花ですから、歌から受ける印象はその人に似ています。私たちの法然上人は、誰もが往き易き浄土への門を開き示されただけでなく、奥深い詩歌の世界にも通じておられたのです。よくよくその御歌を見ると、たいそうよく上人に似ています。さとりの世界の有様が備わっていて、おのずと人々を教え導き、味わい深い世界に誘う徳があります）</p>
</div>
<p>と書かれています。</p>
<p><img decoding="async" loading="lazy" src="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads//2023/08/蓮華の台の上を歩まれる法然上人（知恩院蔵）-2.jpg" alt="" width="267" height="600" class="alignright wp-image-5212" style="letter-spacing: 0.8px;" srcset="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/08/蓮華の台の上を歩まれる法然上人（知恩院蔵）-2.jpg 533w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/08/蓮華の台の上を歩まれる法然上人（知恩院蔵）-2-133x300.jpg 133w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/08/蓮華の台の上を歩まれる法然上人（知恩院蔵）-2-455x1024.jpg 455w" sizes="(max-width: 267px) 100vw, 267px" /></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　浄土宗では「月影のいたらぬ里はなけれども　ながむる人のこゝろにぞすむ」の御歌を宗歌と定めています。詞書に「光明は遍く十方の世界を照らし念仏の衆生を摂取して捨てたまわずの心を」とあるように、『観無量寿経』の教えを詠まれた御歌です。月影とは月の光のことで、阿弥陀仏のみこころを表します。みほとけの救いの光は月の光のように、どんなに遠く離れていても、ながむる人（念仏する人）の心に、その清らかな光を届けて下さるのです。</p>
<p>　法然上人は『選択集』で、</p>
<div class="box2">
<p>「念仏の行、水月を感じて昇降を得たり」</p>
<p>（天上の月と地上の水の間には、隔たりを越えた交流の世界が生まれるように、阿弥陀仏と念仏する者との間にもそのような共感の世界が生まれる）</p>
</div>
<p>と述べておられます。法然上人は世界を遍く照らす阿弥陀仏の光明が特に念仏する人に向けられることについて、世界を遍く照らす光は常に照らす「常光」であり、その中でも念仏する人を救い取る光は「神通光」であると説明しておられます。神通とは仏やボサツが救いの手を差しのべるために、一人一人と向き合い、その心の奥底を見通す智慧のことです。</p>
<p>　この御歌にある「こゝろにぞすむ」の「すむ」は、漢字では住・澄・済などを当てることができますが、日本語の「すむ」は、動いていたものが落ち着くありさまを表す語根の「す」に、「む」という語尾を添えたもの、と言われています。法然上人は葦が生い茂る水面（妄念）にも月は宿る、という譬えでお念仏の世界を語っておられます。みほとけを招く南無阿弥陀仏の声は、その光をどのような心にも宿し住まわせ、私たちを安らかな落ち着きの世界に導いてくるのです。</p>
<p>　ところで、月影の御歌は法然上人入滅から百八年経った頃に撰集された『続千載和歌集』にも収録されています。そこではそのすぐ後に、上人に帰依した宇都宮頼綱（出家名は蓮生）の「下品下生の心をよみ侍りける」という詞書がある、「道もなくわすれはてたる古郷に　月はたずねて猶ぞすみける」という歌が収録されています。下品下生とは、重い罪悪を背負ってきたけれども、臨終の間際に善知識（善友）のすすめで念仏して往生する人のことです。世界を遍く照らす阿弥陀仏の光明は、見放されたような人のところにも訪ねて行く、大悲の光明であることを詠んだ歌です。</p>
<p style="text-align: right;">知恩院浄土宗学研究所主任　藤堂 俊英</p>
<div id="attachment_5208" style="width: 235px" class="wp-caption aligncenter"><img aria-describedby="caption-attachment-5208" decoding="async" loading="lazy" src="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads//2023/08/上人修行の故地黒谷青龍寺に立つ月影の歌碑-rotated.jpg" alt="" width="225" height="300" class="wp-image-5208" srcset="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/08/上人修行の故地黒谷青龍寺に立つ月影の歌碑-rotated.jpg 900w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/08/上人修行の故地黒谷青龍寺に立つ月影の歌碑-225x300.jpg 225w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/08/上人修行の故地黒谷青龍寺に立つ月影の歌碑-768x1024.jpg 768w" sizes="(max-width: 225px) 100vw, 225px" /><p id="caption-attachment-5208" class="wp-caption-text">上人修行の故地黒谷青龍寺に立つ月影の歌碑</p></div>
<p style="text-align: right;"><a href="https://www.chion-in.or.jp/kacho/5298/" class="button st_line arrow">第15回「大原－聖（ひじり）と仏教音楽の里」</a></p>
]]></content:encoded>
											<imageurl>https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads//2023/08/蓮華の台の上を歩まれる法然上人（知恩院蔵）-1024x684.jpg</imageurl>
		<issue>法然上人の歩まれた道⑭</issue>
	</item>
		<item>
		<title>「みほとけが選ばれた念仏」</title>
		<link>https://www.chion-in.or.jp/kacho/4762/</link>
				<pubDate>Sat, 01 Jul 2023 00:00:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[chionin]]></dc:creator>
		
		<guid isPermaLink="false">https://www.chion-in.or.jp/?post_type=kacho&#038;p=4762</guid>
				<description><![CDATA[　法然上人は建久八年（六十五歳）頃に病気をされます。回復に向かわれたものの、しばらくの間、お説法には出向かれなかったのです。そのため上人の帰依者であり庇護者であった九条兼実は、たいそう心配して使者をつかわし、「これまで浄 [&#8230;]]]></description>
								<content:encoded><![CDATA[<p>　法然上人は建久八年（六十五歳）頃に病気をされます。回復に向かわれたものの、しばらくの間、お説法には出向かれなかったのです。そのため上人の帰依者であり庇護者であった九条兼実は、たいそう心配して使者をつかわし、「これまで浄土の教えを受けたまわってきたけれども、まだ心の底に納めるまでには至っていません。そこで念仏往生の教えの要文を書き留めて頂ければ、それを通してお目にかかっている思いになれ、また形見にすることも出来ます」と願い出たのです。その要請を受けてまとめられたのが主著となる『選択本願念佛集』です。</p>
<p>　法然上人が冒頭の「選択本願念佛集」という書名と、その教えの核心となる</p>
<div class="box2">
<p>「南無阿弥陀佛　往生之業念佛為先」（往生の業には念佛を先と為す）</p>
</div>
<p>という十四文字を書かれ、本文の全十六章は上人の口述を門弟が筆記したのです。このようにして、末法の世の誰もが生死の苦海を〈速やかに〉離れることのできる教えが、経文や浄土教祖師の文、そして念仏体験の裏打ちを基にしてまとめられたのです。</p>
<p>　ところでお経では、この世に生まれた人を苦しみ多き大海に漕ぎ出す舟に譬えています。果てしない大海を無事に渡るには、進むべき方向や現在地を確認するなど、航海術を身につけなければなりません。ところが従来の苦海を渡る術は、高度な知と行を必要とし、誰もが容易に習得出来るものではなかったのです。</p>
<p>　法然上人は誰もが苦海を渡ることの出来る術について、『選択本願念佛集』（以下『選択集』と略）で</p>
<div class="box2">
<p>「津を問う者には、示すに西方の通津を以ってし、行を尋ねる者には、念佛の別行を以ってす」</p>
<p>（苦海を渡るための大事な港を問う人には、西方浄土に向かう港を示し、苦海を渡るための行を尋ねる人には、とりわけ称名念仏をすすめる）</p>
</div>
<p>と述べておられます。</p>
<p>　つまり苦海を渡る方法を尋ねる人には、自力による舟をすすめるのではなく、称名念仏によって阿弥陀仏の本願の船に乗り、浄土という安穏の地を目ざすようにとすすめられたのです。称名念仏は阿弥陀仏がどうすれば人々を安穏の地に導くことができるであろうかと、長い長い熟慮（五劫思惟）の末に、さまざまな行の中から願いをこめて選ばれた行であるところから、法然上人は選択本願念仏と呼ばれたのです。</p>
<p>　阿弥陀仏が選ばれたお念仏によって、誰もが等しく安穏の浄土に渡れるところから、法然上人は測り難い阿弥陀仏のみこころ（聖意）によって選ばれた称名念仏は、劣った行ではなく勝れた行であり、難しい行ではなく易き行であると語っておられます。</p>
<p>　『選択集』は上人の滅後、間もなく木版刷り本となり、多くの人々に読まれるようになります。それは日本の仏教史上、稀なことだったのです。しかし高いハードルもなく、声のお念仏であらゆる人々が救われるという『選択集』の教えは、当時の仏教界からは理解されず、出版本やその版木は集められ焼却されるという暴挙に遭います。それでも『選択集』はその後も出版され続けたのです。</p>
<p>　言語学者の新村出（『広辞苑』の編者）は『選択集』への弾圧を、江戸幕府が寛政年間に西洋の書物を禁じたことや、在野の知識人で海防護国論を唱えた林子平の書物を没収したことと共に、日本印書史上の三大書難としてあげ、</p>
<div class="box2">
<p>「噫書は以て焚くべく、版は以て毀つべきも、聖哲の説は得て滅ぼすべからず」</p>
<p>（ああ、たとえ書物は焼かれても、その版木は壊されても、まことの道を説く高徳の人の教えは受け入れられ滅ぼすことなど出来ない）</p>
</div>
<p>と、『選択集』が人々の求めに応じて出版され続け、読まれて来たことの偉業を、「我国印書史上に特筆大書するに足るべき也」とたたえています。</p>
<p style="text-align: right;">知恩院浄土宗学研究所主任　藤堂 俊英</p>
<div id="attachment_4764" style="width: 1210px" class="wp-caption alignnone"><img aria-describedby="caption-attachment-4764" decoding="async" loading="lazy" src="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads//2023/06/⑬『選択集』を口述する法然上人（『法然上人行状絵図』巻十一）.jpg" alt="" width="1200" height="474" class="size-full wp-image-4764" srcset="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/06/⑬『選択集』を口述する法然上人（『法然上人行状絵図』巻十一）.jpg 1200w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/06/⑬『選択集』を口述する法然上人（『法然上人行状絵図』巻十一）-300x119.jpg 300w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/06/⑬『選択集』を口述する法然上人（『法然上人行状絵図』巻十一）-1024x404.jpg 1024w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/06/⑬『選択集』を口述する法然上人（『法然上人行状絵図』巻十一）-768x303.jpg 768w" sizes="(max-width: 1200px) 100vw, 1200px" /><p id="caption-attachment-4764" class="wp-caption-text">『選択集』を口述する法然上人（『法然上人行状絵図』巻十一）</p></div>
<p style="text-align: right;"><a href="https://www.chion-in.or.jp/kacho/5206/" class="button st_line arrow">第14回「お念仏のこころを詠まれた歌」</a></p>
]]></content:encoded>
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		<issue>法然上人の歩まれた道⑬</issue>
	</item>
		<item>
		<title>「天災地変と戦乱の世で」</title>
		<link>https://www.chion-in.or.jp/kacho/4592/</link>
				<pubDate>Thu, 01 Jun 2023 00:05:30 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[chionin]]></dc:creator>
		
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				<description><![CDATA[　法然上人が阿弥陀仏のみこころとつながるお念仏を弘めておられた頃、世の中では六年にもわたり源氏と平家が争う戦乱（治承・寿永の乱）が続き、加えて飢饉や大火や地震などの災害が次々に起こっていました。 　治承元年（一一七七）、 [&#8230;]]]></description>
								<content:encoded><![CDATA[<p>　法然上人が阿弥陀仏のみこころとつながるお念仏を弘めておられた頃、世の中では六年にもわたり源氏と平家が争う戦乱（治承・寿永の乱）が続き、加えて飢饉や大火や地震などの災害が次々に起こっていました。</p>
<p>　治承元年（一一七七）、上人四十五歳の時には〈安元の大火〉が起こり、『方丈記』によれば「都のうち三分の一」が灰燼に帰したとあります。また治承四年（一一八〇）、上人四十八歳の時には〈治承の辻風〉という竜巻と思われる暴風が襲いました。藤原定家の日記『明月記』には「猛烈な稲光とともに雷鳴がとどろき、木は抜き去られ、石は舞い上がり、家も門も牛車もみな吹き上げられた」とあり、『方丈記』には「地獄の風もここまでひどくはないだろう」とあります。続く養和元年（一一八一）から翌年にかけては気候変動が原因で、京都や西日本一帯が干ばつや洪水に見舞われ、農産物の不作から〈養和の大飢饉〉が起こり、おびただしい餓死者が出ます。</p>
<p>　『方丈記』には「人々は土地を捨て国を離れ山に住むようになった。お金の価値は下がり、財物で食物を手に入れようとしても誰も目もくれない。その上に疫病まで流行り、まるで少ない水の中で苦しむ魚のような有様だ。餓死者の額に梵字を書いて弔った仁和寺の僧によれば、その数は四万二千三百人にもおよんだ」とあります。さらに元暦二年（一一八五）、法然上人五十二歳の時には〈元暦の大地震〉が起こります。『平家物語』には「大地は裂け、水は噴出し、山は崩れて川を埋め、浜には津波が押し寄せ、皇居や人々の家、神社仏閣は崩壊し、おびただしい人が下敷きになって亡くなった」とあり、『方丈記』には余震が三か月ほど続いたと書かれています。</p>
<div id="attachment_4598" style="width: 1210px" class="wp-caption alignnone"><img aria-describedby="caption-attachment-4598" decoding="async" loading="lazy" src="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads//2023/05/⑫法然上人の歩まれた道_念仏聖の明遍は上人が四天王寺西門で病者に施しをする夢をみる.jpg" alt="" width="1200" height="385" class="size-full wp-image-4598" srcset="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/05/⑫法然上人の歩まれた道_念仏聖の明遍は上人が四天王寺西門で病者に施しをする夢をみる.jpg 1200w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/05/⑫法然上人の歩まれた道_念仏聖の明遍は上人が四天王寺西門で病者に施しをする夢をみる-300x96.jpg 300w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/05/⑫法然上人の歩まれた道_念仏聖の明遍は上人が四天王寺西門で病者に施しをする夢をみる-1024x329.jpg 1024w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/05/⑫法然上人の歩まれた道_念仏聖の明遍は上人が四天王寺西門で病者に施しをする夢をみる-768x246.jpg 768w" sizes="(max-width: 1200px) 100vw, 1200px" /><p id="caption-attachment-4598" class="wp-caption-text">念仏聖の明遍は上人が四天王寺西門で病者に施しをする夢をみる（『法然上人行状絵図』巻十六）</p></div>
<p>　また戦乱についていえば、治承四年には平氏の政策に反抗する南都の寺院に対し、清盛の命を受けた五男の重衡らが焼き討ちをかけ、東大寺では大仏殿や堂塔伽藍が灰燼に帰す惨事が起こります。その東大寺復興募財のために、法然上人の推挙や後白河法皇などの命を受けて大勧進職についたのが俊乗房重源でした。伝記によれば、それ以前、重源は宋に渡り中国浄土教のお祖師がたの画像と五劫思惟の阿弥陀仏像を将来したといわれています。五劫思惟とは、阿弥陀仏が修行時代にいかにすれば全ての人を救済することができるだろうかと、途方もない長い間、熟慮を重ねたところを、大きな編み笠をかぶったような螺髪の姿で表現したお像のことです。</p>
<p>　建久二年（一一九一）ごろ、法然上人は重源の招きを受け、まだ再建中の大仏殿の軒の下で浄土三部経（無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経）の講義をされたと伝えられています。法然上人の語録にはその折の講説書や、重源からの問いに答えられた「東大寺十問答」というご法語が収録されています。</p>
<p>　源氏の台頭で平氏が西国に逃れた後、都の治安維持のために木曽の義仲が入洛します。法然上人は激動の世でも「我れ聖教を見ざる日なし」と、仏典に向う日々を送っておられたのですが、それでも「木曽の冠者、花洛に乱入の時、ただ一日、聖教を見ざりき」と伝えられています。その後、東大寺を焼き討ちした平重衡は一の谷の合戦で捕えられますが、伝記には「生きながら捕えられたのは、今一度、法然上人にお会いしたかったからである」とあり、『平家物語』には南都焼き討ちを悔いる重衡が「以前からご縁のあった聖（法然上人）に今一度お会いして後世のことを相談したい」と願った、と書かれています。</p>
<p>　このような天災地変や戦乱の世で、法然上人は苦難に遭遇する人々と向き合い、みほとけとつながる救いの道を説いておられたのです。</p>
<p style="text-align: right;">知恩院浄土宗学研究所主任　藤堂 俊英</p>
<div id="attachment_4597" style="width: 1210px" class="wp-caption alignnone"><img aria-describedby="caption-attachment-4597" decoding="async" loading="lazy" src="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads//2023/05/⑫法然上人の歩まれた道_大仏殿の壁に重源将来の仏画を掛けて開眼供養する上人.jpg" alt="" width="1200" height="334" class="size-full wp-image-4597" srcset="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/05/⑫法然上人の歩まれた道_大仏殿の壁に重源将来の仏画を掛けて開眼供養する上人.jpg 1200w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/05/⑫法然上人の歩まれた道_大仏殿の壁に重源将来の仏画を掛けて開眼供養する上人-300x84.jpg 300w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/05/⑫法然上人の歩まれた道_大仏殿の壁に重源将来の仏画を掛けて開眼供養する上人-1024x285.jpg 1024w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/05/⑫法然上人の歩まれた道_大仏殿の壁に重源将来の仏画を掛けて開眼供養する上人-768x214.jpg 768w" sizes="(max-width: 1200px) 100vw, 1200px" /><p id="caption-attachment-4597" class="wp-caption-text">大仏殿の壁に重源将来の仏画を掛けて開眼供養する上人（『法然上人行状絵図』巻三十）</p></div>
<p style="text-align: right;"><a href="https://www.chion-in.or.jp/kacho/4762/" class="button st_line arrow">第13回「みほとけが選ばれた念仏」</a></p>
]]></content:encoded>
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		<issue>法然上人の歩まれた道⑫</issue>
	</item>
		<item>
		<title>「受け継がれる教えの灯火」</title>
		<link>https://www.chion-in.or.jp/kacho/4548/</link>
				<pubDate>Mon, 01 May 2023 00:04:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[chionin]]></dc:creator>
		
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				<description><![CDATA[　暗い道でも足元や行く先を照らす明かりがあれば前に進めます。厳しい寒さに直面しても温もりがあれば凍えずに明日を迎えられます。釈尊の教えには、そのように歩を前に進める明かりや温もりが備わっています。無知の暗闇と無慈悲の冷た [&#8230;]]]></description>
								<content:encoded><![CDATA[<p>　暗い道でも足元や行く先を照らす明かりがあれば前に進めます。厳しい寒さに直面しても温もりがあれば凍えずに明日を迎えられます。釈尊の教えには、そのように歩を前に進める明かりや温もりが備わっています。無知の暗闇と無慈悲の冷たさを追い払う釈尊の教えは、それを伝えることを使命とする伝灯師たちの懸命な努力によって、流砂や山岳や大海を越え、幾つもの時代を越えて、今日に伝えられてきました。お経にはその伝承の有様が、「一つの灯火から百千の灯火をともすとも、元の一つの灯火はその光を減ずることなし」と説かれています。</p>
<p>　法然上人は誰もがお念仏によって安穏の境地に到ることが出来るという教えの灯火を、時空を越えた善導大師の教えから受け取られたのです。ある日、お念仏の暮らしを送る法然上人の夢に、次のような世界が現れたことが上人の語録や伝記に伝えられています。</p>
<div class="box2">
<p>　そこには南北に連なる大きな山なみがそびえていた。西側の山麓には清らかな水が流れる川が見えた。法然上人が山の中腹まで登ると、浄土の空に浮かぶ紫の雲が見え、こちらへやって来た。雲の中からは光が放たれ、浄土にいる孔雀や鸚鵡が現れた。しばらくすると紫雲の中から一人の僧が現れた。その僧の衣は腰より下は金色、腰より上は墨染であった。</p>
<p>　法然上人が「あなたは一体どなたですか」と尋ねると、その僧は「善導なり」と応えられた。そこで上人が「どうしてここへ来られたのですか」と尋ねると、善導大師は「あなたが人々にお念仏を弘めている、その行いが貴いからやって来たのだ」と言われ、そこで夢が覚めた。</p>
</div>
<p>　法然上人が善導大師の教えに導かれ、お念仏の味わいを人々と分かち合っていたところ、その姿に共感した善導大師が夢に現れ、法然上人を励まされたと言うのです。善導大師の衣が腰より下が金色であったというのは、大師が阿弥陀仏の化身であることを表し、腰より上が墨染であったというのは、大師がこの世の人であることを表しています。この善導大師（高祖）と法然上人（元祖）の夢中での出会いは二祖対面と呼ばれ、法然上人が善導大師から念仏往生の教えを継承し、それを弘めることを後押しされた証と受け止められています。</p>
<p>　仏教の歴史では中国の隋や唐の時代あたりから、各宗派の教えが誰から誰へと伝承されて来たのかという系譜（血脈）に関心が向けられます。一般に何かの技の伝承は、師が弟子に口授で、あるいは仕事に打ち込む姿を通して、あるいは書き物に託して伝えられます。法然上人が夢中で善導大師と出会い、念仏往生の教えを伝承したという系譜に対しては、夢中での出来事は真実ではないという主張があるところから、浄土宗七祖聖冏上人や琉球に浄土教を伝えた袋中上人は、高僧が見た夢には仏法を授かり弘めるきっかけになった事例があることを、さまざまな仏典から取り上げています。</p>
<p>　そして、心を静める禅定によって仏の世界を感得する三昧（定心三昧）を体験した人は〈寤寐恒一〉、つまり目が覚めている時も眠っている時も、心の状態はいつも同じであるという経文をふまえて、お念仏の声を通して仏の世界を感得する三昧（口称三昧）を体験された法然上人にとって、夢中での出来事は妄夢などではなく真夢であると説明されています。ちなみに中世の人たちの日記や文学には、さまざまな夢の体験が書かれています。浄土宗の高僧の記録としては、袋中上人の『寤寐集』、東北地方の念仏教化に尽くされた無能上人や、知恩院勢至堂の南隣に一心院を開かれた称念上人の「夢の記」などがあります。</p>
<p style="text-align: right;"><span>知恩院浄土宗学研究所主任　藤堂 俊英</span></p>
<div id="attachment_4551" style="width: 1192px" class="wp-caption alignnone"><img aria-describedby="caption-attachment-4551" decoding="async" loading="lazy" src="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads//2023/04/⑪法然上人と善導大師の二祖対面.jpg" alt="" width="1182" height="400" class="wp-image-4551" srcset="https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/04/⑪法然上人と善導大師の二祖対面.jpg 1200w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/04/⑪法然上人と善導大師の二祖対面-300x102.jpg 300w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/04/⑪法然上人と善導大師の二祖対面-1024x346.jpg 1024w, https://www.chion-in.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/04/⑪法然上人と善導大師の二祖対面-768x260.jpg 768w" sizes="(max-width: 1182px) 100vw, 1182px" /><p id="caption-attachment-4551" class="wp-caption-text">法然上人と善導大師の二祖対面（『法然上人行状絵図』巻七）</p></div>
<p style="text-align: right;"><a href="https://www.chion-in.or.jp/kacho/4592/" class="button st_line arrow">第12回「天災地変と戦乱の世で」</a></p>
]]></content:encoded>
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		<issue>法然上人の歩まれた道⑪</issue>
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