あらゆる人々に門戸を開いた法然上人の教えが世間に広まって行った頃、上人の道に災難(法難)がふりかかります。それは門人の中に師の教えを曲解し、勝手気ままに振る舞う者が現れたために、他宗からの厳しい非難を招き、その責任が法然上人に向けられたのです。
元久元年(一二〇四)、比叡山の僧たちは一宗の首席である座主の真性に念仏の禁止を訴え出ます。事の次第を聞かれた法然上人は、門人の行動を正す「七箇条起請文」(七箇条制誡ともいう)を作り、「それでもなおこれにそむく者は、私の門人ではない、魔につき従う者だ。もう私の草庵に来てはならない」と厳しく戒めます。そして多くの門人と誓約の署名をして座主に提出したのです。
七か条の戒めは次のようなものです。
(一)他宗の教えを学びもせずに中傷したり、阿弥陀仏以外の仏やボサツを誹謗しないこと。
(二)無知な人が智者や信仰を異にする人に好んで議論を挑んではならない。
(三)信仰を異にする人に対し、愚痴や偏見から転向をすすめたり、むやみに嫌ったりあざ笑ったりしないこと。
(四)念仏の教えには守るべき戒はないと言って、専ら飲酒や婬貪や食肉をすすめ、戒を守る人は弥陀の本願に疎い人だと決めつけたり、弥陀の本願を頼む人は造悪を恐れることはない、などと説いてはならない。
(五)思慮分別のない無知の人が、仏法をふまえずに師の教えではないことを勝手に語ったり、みだりに議論をもちかけて智者に笑われたり、愚者を混乱させてはならない。
(六)浅識で未熟な者が説法を好み、正しい教えを知らないのに邪法を説いて無知な人々を教化してはならない。
(七)仏法ではない邪法を説いて、それが正しい法であり、師の教えであるなどと偽ってはならない。
この誓約により危機は回避されたのですが、翌元久二年には、南都興福寺の僧たちが、法然上人が弘めている教えには過失があるとし、八つの宗派が心を同じくしてその停止を求めた「興福寺奏状」(全九条)を朝廷に提出します。この時は上人の本懐に背く門弟の偏執に過失があるとして念仏の停止には至らず、上人には直接危難が及ばなかったのです。しかし仏教界からは専修念仏への批判が次々に起こるようになったのです。
さらに翌年の建永元年(一二〇六)には、後鳥羽上皇が熊野へ参詣の不在中に、門弟の住蓮と遵西が開いた別時念仏や阿弥陀仏を昼夜にわたって礼拝し讃嘆する法会(六時礼讃)に、上皇に仕えていた女房の松虫・鈴虫が参詣し、帰依の念の余り剃髪出家してしまいます。帰洛してそれを聞き及んだ上皇は激怒し、翌年、住蓮と遵西は死罪、七十五歳の法然上人は四国に、門弟も各地に流罪になるのです。
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法然上人が流罪となり別れを悲しむ人々(『法然上人行状絵図』巻三十三)
それでも上人はその逆縁を、お念仏の教えを伝え弘める機縁と捉えて配所に赴き、その途上で多くの人々を教化されたのです。おそらく法然上人のお心は、西方指南の書と仰がれた善導大師の『観経疏』に出る、「もし一人の苦を捨て生死を出づる者を得れば、これを真に仏恩に報ずと名づく」(みほとけの大悲の教えを説き、それを聞いた者が、もし一人でも苦しみを離れ、迷いの世界をのりこえることができれば、それが真にみほとけのご恩に報いることになる)というお心とつながっていたのでしょう。承元元年(一二〇七)には勅免が出たものの、すぐには帰洛できず、山岳修行の山にある勝尾寺(大阪府箕面市)に四年ほど止住された後、ようやく今の知恩院の地に戻られ、最晩年の月日を過ごされるのです。
知恩院浄土宗学研究所主任 藤堂 俊英
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配所に向かう途上でお説法される法然上人(『法然上人行状絵図』巻三十四)