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法然上人の歩まれた道⑫

「天災地変と戦乱の世で」

 法然上人が阿弥陀仏のみこころとつながるお念仏を弘めておられた頃、世の中では六年にもわたり源氏と平家が争う戦乱(治承・寿永の乱)が続き、加えて飢饉や大火や地震などの災害が次々に起こっていました。

 治承元年(一一七七)、上人四十五歳の時には〈安元の大火〉が起こり、『方丈記』によれば「都のうち三分の一」が灰燼に帰したとあります。また治承四年(一一八〇)、上人四十八歳の時には〈治承の辻風〉という竜巻と思われる暴風が襲いました。藤原定家の日記『明月記』には「猛烈な稲光とともに雷鳴がとどろき、木は抜き去られ、石は舞い上がり、家も門も牛車もみな吹き上げられた」とあり、『方丈記』には「地獄の風もここまでひどくはないだろう」とあります。続く養和元年(一一八一)から翌年にかけては気候変動が原因で、京都や西日本一帯が干ばつや洪水に見舞われ、農産物の不作から〈養和の大飢饉〉が起こり、おびただしい餓死者が出ます。

 『方丈記』には「人々は土地を捨て国を離れ山に住むようになった。お金の価値は下がり、財物で食物を手に入れようとしても誰も目もくれない。その上に疫病まで流行り、まるで少ない水の中で苦しむ魚のような有様だ。餓死者の額に梵字を書いて弔った仁和寺の僧によれば、その数は四万二千三百人にもおよんだ」とあります。さらに元暦二年(一一八五)、法然上人五十二歳の時には〈元暦の大地震〉が起こります。『平家物語』には「大地は裂け、水は噴出し、山は崩れて川を埋め、浜には津波が押し寄せ、皇居や人々の家、神社仏閣は崩壊し、おびただしい人が下敷きになって亡くなった」とあり、『方丈記』には余震が三か月ほど続いたと書かれています。

念仏聖の明遍は上人が四天王寺西門で病者に施しをする夢をみる(『法然上人行状絵図』巻十六)

 また戦乱についていえば、治承四年には平氏の政策に反抗する南都の寺院に対し、清盛の命を受けた五男の重衡らが焼き討ちをかけ、東大寺では大仏殿や堂塔伽藍が灰燼に帰す惨事が起こります。その東大寺復興募財のために、法然上人の推挙や後白河法皇などの命を受けて大勧進職についたのが俊乗房重源でした。伝記によれば、それ以前、重源は宋に渡り中国浄土教のお祖師がたの画像と五劫思惟の阿弥陀仏像を将来したといわれています。五劫思惟とは、阿弥陀仏が修行時代にいかにすれば全ての人を救済することができるだろうかと、途方もない長い間、熟慮を重ねたところを、大きな編み笠をかぶったような螺髪の姿で表現したお像のことです。

 建久二年(一一九一)ごろ、法然上人は重源の招きを受け、まだ再建中の大仏殿の軒の下で浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)の講義をされたと伝えられています。法然上人の語録にはその折の講説書や、重源からの問いに答えられた「東大寺十問答」というご法語が収録されています。

 源氏の台頭で平氏が西国に逃れた後、都の治安維持のために木曽の義仲が入洛します。法然上人は激動の世でも「我れ聖教を見ざる日なし」と、仏典に向う日々を送っておられたのですが、それでも「木曽の冠者、花洛に乱入の時、ただ一日、聖教を見ざりき」と伝えられています。その後、東大寺を焼き討ちした平重衡は一の谷の合戦で捕えられますが、伝記には「生きながら捕えられたのは、今一度、法然上人にお会いしたかったからである」とあり、『平家物語』には南都焼き討ちを悔いる重衡が「以前からご縁のあった聖(法然上人)に今一度お会いして後世のことを相談したい」と願った、と書かれています。

 このような天災地変や戦乱の世で、法然上人は苦難に遭遇する人々と向き合い、みほとけとつながる救いの道を説いておられたのです。

知恩院浄土宗学研究所主任 藤堂 俊英

大仏殿の壁に重源将来の仏画を掛けて開眼供養する上人(『法然上人行状絵図』巻三十)

第13回「みほとけが選ばれた念仏」