法然上人が修行をされた延暦寺西塔黒谷にある青龍寺の位置は、現在の行政区分では京都市左京区八瀬秋元町になっています。比叡山の西麓にある黒谷をさらに西に下り、日本海へ通ずる街道に出て数キロ北上すると大原に至ります。大原は平安時代中頃から聖(隠遁僧)たちが集まる別所と言われる静寂な里でした。
法然上人の黒谷での師であった叡空上人が師事した良忍上人(一〇七二〜一一三二)も比叡山で修行された後この大原に下り、一人が唱えるお念仏の功徳が他の人にも融通され、共に往生を願う融通念仏という教えを弘め、融通念仏宗が起こります。また良忍上人はふしを付けて読経やお念仏をする声明(インドでは音声や言語の学問を意味していた)という仏教音楽を弘めます。
大原にはそれ以前にも伝教大師最澄の弟子で、遣唐使と共に唐に渡り仏教を学んだ慈覚大師円仁(七九四〜八六四)が、文殊ボサツの霊山として知られる五台山から伝えた声明がありました。それはゆるやかな曲調で阿弥陀経や念仏を唱えるもので、引声阿弥陀経、引声念仏あるいは不断念仏などと呼ばれています。中国での声明は山東省の魚山から起こったといわれるところから、勝林院や三千院の辺りも魚山と呼ばれます。ちなみにこの声明が後にご詠歌をふくめ、朗詠、浄瑠璃、謡曲、長唄、清元など、日本音楽に大きな影響を及ぼすのです。
三千院の境内にある往生極楽院(ご本尊は来迎の姿をした阿弥陀三尊像)の南と北を流れる川は、仏教音楽の音律の用語である呂と律にちなんで呂川、律川と呼ばれています。北の律川の辺りにあった龍禅院におられた天台宗の顕真和上は、三千院のすぐ傍にある勝林院で不断念仏を行っておられました。法然上人は『選択集』を撰述される十年ほど前、その顕真和上からの要請で、後に「大原問答」と呼ばれる、お念仏をめぐる高僧がたとの問答に臨まれました。開催場所は龍禅院とも勝林院とも言われています。その出来事は善導大師の教えを指南とする法然上人のお念仏が、聖たちの間に広まって行く機縁になったと言われています。
ところで大原の里は秋の紅葉で知られています。江戸時代に始まった法然上人二十五霊場の第二十一番は大原勝林院で、そこに当てられているのが
「阿弥陀仏に染むる心の色に出でば 秋の梢のたぐいならまし」
(お念仏で阿弥陀仏に染まった心を色に表したとしたら、秋の紅葉のようであろう)
という御歌です。私たちの心は何かに染まりやすく出来ています。同じ染まるのであれば、貪りや怒りや愚痴の煩悩に染まるのではなく、紅葉のように、誰もが和み喜び合える、そうした心の染め方が望まれます。それは心の濁りを浄化して行くものこそが、この世で最も勝れたものである(勝義有)という大乗仏教の教えに由来するものです。
二祖聖光上人は「よくよく極楽を願い、よくよく阿弥陀仏を心に染めたならば、自然に阿弥陀仏のみ胸にかなう心が具わってくる」と語っておられます。また江戸時代の湛澄上人の『空花和歌集』には、この御歌は阿弥陀仏への信心の深まりを詠まれた御歌であり、「染める」とは、「いつも極楽を念じて、時と所とを選ばず、ただ阿弥陀仏を思い、阿弥陀仏の本願を思い、南無阿弥陀仏の名号を思い、阿弥陀仏のお姿を思い、摂取不捨の光明を思い、あるいはお説法を聞き、あるいはみずからお経をひらいて読む。それを片時も忘れず、捨てないことだ」と解説しておられます。
知恩院浄土宗学研究所主任 藤堂 俊英
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お念仏をめぐる問答が行われた大原勝林院(『法然上人行状絵図』巻十四)