仏教では人と向き合うことを対人とは言わずに対機と言います。一般に「機」は織機などの機械や、「機会」のように適切な時を表すのに使われます。例えば織機にタテ糸(経)・ヨコ糸(緯)・人の技という条件を丁寧にそろえてやれば、どんな織機も布を織るという本来のはたらきを発揮します。また何かをするのに、適切な機会をとらえてやれば、事をスムーズに運ぶことができます。
仏教では「機」を教えに触れることによって発揮される能力、あるいは教えを聞く人、という意味で使います。聞く耳をもった人に適切な言葉や機会を選んで教えを伝えれば、その人は教えの糸を暮らしの中に織り込む能力を発揮することができます。そういう人との向き合い方を対機というのです。
ブッダのお説法は、まずは会話を通して相手の心をほぐし、聞く準備ができた機会をとらえて本筋の話に入る、そういう手順を踏んでなされていました。それを次第説法と呼んでいます。社会学者の見田宗介氏はブッダの次第説法を、まずは自分をオープンにして相手に与えるギビング、次に言葉のキャッチボールを通して相手の心に触れて行くタッチング、その準備ができたところで本筋の話に入るティーチングという三段階を踏まえてなされていたとみて、そこに古代の高い教育的意識をうかがうことが出来ると指摘しています。
仏教詩人のマートリチェータはブッダの徳をたたえる詩『百五十讃』の中で、「あなたは問われて答えない時もあったし、わざわざ出向いて語りかけたこともある。聞く気持ちを起こさせてから語りかけたこともあった。あなたは口を開く時機と相手を知っていたのだ」(奈良康明訳)と次第説法、対機説法の徳をたたえています。
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人々に教えを説かれる法然上人(『法然上人行状絵図』巻三十四)
法然上人も「どのみほとけも出会いの縁を生かし、向き合う相手の教えを聞く能力を推し量かり(機をはかり)、数えきれない人々に導きの手を差しのべてきた。そのご縁を蒙った人は、誰もが救いにあずかることが出来た」(三部経釈)と語っておられます。
仏教には八万四千の法門と言われるようにたくさんの教えがあります。法然上人はどれも勝れた教えであるけれども、浄土の教えは「機をはからう」(要義問答)、つまり釈尊のお説法の心である、さまざまな人々と向き合う姿勢を大切にするところに特色があると語られています。だからお念仏はあらゆる人々を利益する(万機普益)教えと言われるのです。
ところで法然上人のご法語には、お手紙(消息)や問答体のものが幾つも残っています。それは上人がさまざまな人と向き合い、応答する機会を大切にしておられたことを物語っています。例えば『一百四十五箇条問答』では、お念仏に関することだけでなく、衣食住に関する素朴な質問にも答えておられます。吉田兼好の『徒然草』にも
「ある人、法然上人に念仏の時、眠りにおかされて行を怠り侍ること、いかがしてこの障りをやめはべらんと申しければ、目の覚めたらんほど念仏し給へと答へられたりける。いと尊かりけり」(第三十九段)
とあります。つまり、お念仏をしていて眠くなったらどうしたらよいでしょうかと聞かれると、目が覚めている間にお念仏をすればよいと答えられたが、それは誠に尊いことだというのです。ここにもお念仏の教えを、時と機に合わせ大らかに語る法然上人の対機の姿勢をみることができます。
知恩院浄土宗学研究所主任 藤堂 俊英
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往生の用心についての質問に返信を書く法然上人(『法然上人行状絵図』巻二十二)