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法然上人の歩まれた道②

「母の夢 父の願い」

 法然上人の母の秦氏は剃刀をのむ夢を見て懐妊され、父の漆間時国は、その夢は生まれる子が成長して一国の戒師、あるいは仏法の棟梁として人々を仏道に導く人になる、その吉兆だと受けとめたのです。この場合の剃刀は、出家の時に髪を剃る道具のことです。

 そこには煩悩を剃り落して、釈尊が求めた安らぎの世界を体得し、それを広める人になってほしいという願いがこめられているのです。戒師というのは、仏門に入る意義を説き聞かせて、入門の作法をとり行う師僧のことです。のちに法然上人は関白となる九条兼実や、宮中につかえる女官、後白川法皇などの戒師をつとめられます。

 古代インドの医学書や仏典には、どうして夢を見るのかについて、さまざまな説があげられています。仏典に特有な説として、前兆から見る夢だけは真実なものであるという見解があります。その場合の前兆とは、仏道に縁をむすぶことになる前ぶれという意味です。秦氏が見た夢は、それがやがて真実なものになることを告げていたのです。

 釈尊の母は幸福をもたらす白象が入胎する夢を見て懐妊されたと伝えられています。ここでは日本仏教に伝わる、母が懐妊した時の夢を紹介しましょう。たとえば聖徳太子の母は金色の僧(救世観音)をのむ夢、伝教大師最澄の母は好相の夢、弘法大師空海の母は天竺より聖人が飛び来り懐に入る夢、恵心僧都源信の母は観音ボサツに祈り、高僧から一つの珠を授かる夢、親鸞聖人の母は如意輪観音が男子の誕生を告げる夢、日蓮聖人の母は太陽が懐に入る夢を見て懐妊したと伝えられています。いずれにしても、親が平生から仏ボサツへの祈りの生活を大切にしていたことが、こうした夢をもたらしたに違いありません。

 長承2年(1133)四月七日、秦氏が上人を出産された折、館の椋の木に空から二流の白幡がおりてきたところから、法然上人二十五霊場の第一番でお誕生の遺跡である誕生寺(岡山県)には、「ふたはたの あまくだります 椋の木は 世々に朽ちせぬ 法の師の跡」というご詠歌が当てられています。ちなみに昔、秦氏が大陸から渡来した時の応神天皇は、誕生された時に空から八つの幡がおりてきたといわれています。

 上人の父は土地の治安をあずかる押領使を務めていたのですが、上人が九歳の時、同じ地域にある荘園を管理する預所を務めていた明石源内武者定明の夜襲に逢い、その傷が元で亡くなるのです。父は臨終に、

「敵を怨むことがないように。もし怨みを残せば、いつまでも報復の連鎖が尽きない。人はみな自分のいのちを愛おしむことでは同じだ。その思いを知って、私の菩提をとむらい、憂悲苦悩の煩いを離れる解脱の道を求めるように」

という願いを我が子に託したのです。

 父のこの願いは、『法句経』の「まことにこの世では 怨みに怨みをもってしたならば ついに怨みのしずまることがない 怨みを捨ててこそしずまる これは永遠の真理である」という経文を思い浮かべます。この聖句は1951年、サンフランシスコ講和会議で、後にスリランカの大統領となるジャヤワルデネ代表(当時蔵相)が、日本に対する賠償権を放棄する演説の中で、次のように引用したことで知られています。

「私たちはアジアの数えきれない人々の暮らしを高貴なものにした偉大な教師ブッダのメッセージ、〈憎しみは憎しみによってはしずまらない。ただ愛のみによってしずまる〉を信じているからです」。

 鎌倉大仏で知られる浄土宗高徳院の境内には、この忘れてはならない演説にちなんだ顕彰碑が建立されています。その裏面には、当時の日本国民がジャヤワルデネ代表の演説に励まされ、勇気づけられ、戦後復興の第一歩を踏み出したこと、この石碑が21世紀の日本を担う若い世代に贈る慈悲と共生の理想を示す碑でもあること、この原点から新しい平和が生まれることを確信しますとの碑誌(文・中村元)が刻まれています。

知恩院浄土宗学研究所主任 藤堂 俊英

父の最期に寄り添う母と子(『法然上人行状絵図』巻一)

第3回「悲しみからはじまる道」