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法然上人の歩まれた道③

「悲しみからはじまる道」

 かつて日本の仏教には、南都(奈良)と北嶺(比叡山)に学行の二大拠点がありました。九歳で父の不慮の死に遇い、遺恨を返さず仏の道を歩むようにとの遺言を聞いた勢至丸は、誕生の地から約四十キロ離れた菩提寺という山寺に入ります。

 そこは母の弟で、比叡山延暦寺と南都の両方で、高度な学行をおさめた叔父の観覚が院主をつとめる寺でした。勢至丸はそこで学行に専念しながら、非凡な才能を発揮して行きます。観覚はその器量を辺地に留め置くのを惜しんで、勢至丸にかつて自分が学んだ比叡山に登ることをすすめます。それは父との死別に続いて、母との別れをも意味していました。

 勢至丸の生涯を方向づける道が決まったとき、母の秦氏はその悲しみを、

「かたみとて はかなきおやの とどめてしこのわかれさへまたいかにせん」
(形見であるわが子を心細き親の近くに留めてきたのに、今また遠くに旅立つという別れを、一体どのようにうけとめればよいのでしょうか)

と歌に託したのです。

 『観無量寿経』では、父のいのちを奪ってしまった息子のために、母が釈尊に救いの道を求めます。そこで釈尊は浄土に生まれるためのさまざまな道を説かれます。その一つに孝養父母、両親を大切にするというのがあります。のちに法然上人は、門弟の安楽房遵西の父である中原師秀の要請によっておこなったお説法の中で、その孝養父母について触れ、出家して親と別れ仏道修行をすることは、親の恩を忘れているように見えるが、経文にもあるように、平安の世界を求め広めることこそ真実の報恩謝であると語り、遵西を孝養父母を実践する孝子と呼んだのです。中原親子を念頭に置いたこの言葉には、父との死別、母との生別という悲しみを経て仏門に入った法然上人のどのような思いが重ねられていたのでしょうか。

 ところで仏教の中でも、身と心を養う糧を分かち合い、扶け合う暮らしを大切にしたのが大乗仏教です。その代表的なボサツの一人である龍樹は、世間にはもっぱら自分の目的成就を目ざす自利の人、もっぱら人のために手をさしのべる利他の人、そのどちらにも取り組まない不共利の人、自利・利他の両方に取り組む共利の人がいる。大乗仏教が理想とするのは共利の人で、その人のことを上人というのだと述べています(十住論)。日本仏教でそうした大乗仏教が理想とするボサツを育てる道場を比叡山に開いたのが、日本天台宗の祖となる伝教大師最澄で、そこがやがて延暦寺となるのです。

 伝教大師のボサツ養成の指針を表明したのが三部からなる『山家学生式』という書物です。その中に次のような有名な一節があります。

「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。故に古人のいわく、径寸十枚これ国宝にあらず。一隅を照らす、これすなわち国宝なりと」

 つまり、宝というのは仏の道を求める心であり、そういう心をもつ人が国の宝なのだ。だから昔の人は、輝きを放つ宝が十ほどあっても、それは国の宝ではないと言った。一隅を照らす、それこそが国の宝なのだ、というのです。

 誰にでもこの世界の中で与えられた持ち場(一隅)があります。そこから自らの心に点火した、明るく温かい智慧と慈悲の灯火で社会を照らし、暗く冷たい無知の闇の追放に力を尽くす。伝教大師はそのような宗教的指導者に国の宝を認めたのです。

 また伝教大師が若き日に書かれたという「願文」には、ご自身を愚中の愚、愚の極みと見なし、人知のおごりを厳しく戒める言葉が残されています。法然上人はそうした伝統的雰囲気の中で、誰もが仏法によって得られる安らぎの道を模索して行かれるのです。

知恩院浄土宗学研究所主任 藤堂 俊英

勢至丸の頭上に手をあて涙する母と叔父の観覚(『法然上人行状絵図』巻二)

第4回「師が授けた名前」