総本山知恩院 布教師会前会長 有本亮啓
形ある幸せはもろいもの

総本山知恩院 布教師会前会長
有本亮啓
幸せとはなんでしょうか。
昔から、この3つの条件が整えば幸せであると言われてきました。「身・命・財」の3つです。「身」というのは体、つまり健康であるということ。そして、健康であったうえで、「命」、寿命が長いこと。三つ目に「財」というのは、生活に不自由しないだけのお金です。
しかし、「身・命・財」の三拍子がそろったらあとは何も要らないのでしょうか。
私が住職をつとめるお寺の近くに、当時74歳の男性がいらっしゃいました。結婚はされていましたがお子さんがなかったので、奥さんを亡くされて一周忌を済ませた頃に、高級有料老人ホームに入られました。敷地内に病院があり、遠方からのお客さんが宿泊するためのホテルも付属しているという素晴らしい環境の老人ホームです。当然、財産は充分にお持ちでした。70代の年齢でも不自由なく健やかに暮らしてらっしゃいましたし、入所して以降は付属の病院で定期的に診察を受けることができ、認知症になっても終身保証してもらえる仕組みになっていました。
この男性が入所されて3年が経った頃、ばったりと出会うことがありました。以前よりだいぶ痩せておられました。「ご病気でもなさったのですか」と尋ねてみると、「元気です。健康管理していただいているので痩せたのです」とのお返事。でも、以前ほどお元気ではない様子に見えましたので、私は「悩み事などありませんか」と聞きました。すると、「老人ホームの環境は恵まれていますが、子供がいないのはやはりさみしいですね」と言って、肩を落として去って行かれました。
「身・命・財」に加えて「家族」もいれば、完全に満たされて幸せなのでしょうか。そう言い切れないと思います。家族がいても仲良くいかないことも少なくありませんし、そもそも形にあらわれる幸せを求めていくときりがないのです。形ある幸せを求め続ける心は大変もろいもので、大けがをしたり、財産を失ったり、家族をなくしたりすると、立ち直れないほどの絶望感に襲われることになるのです。
死生ともに煩いのない世界へ
健康が幸せで病気が不幸だと思いがちですが、病気そのものが不幸ではなく、病気に苦しむから不幸なのです。お見舞いに来てくれた人に「心配してくれてありがとう」と感謝できれば病気のときでも幸せな気持ちになれます。つまり、自分がどう受け止めるかで変わってくるのです。
二千五百年前に生まれ、35歳でおさとりをひらかれたお釈迦さまは、すべての人々は幸せになれることを説きました。「咲いた花見て喜ぶならば咲かせた根元の恩を知れ」という詠があります。仮にいま健康で裕福に暮らせているとしても、これまで支えてくださった方々の恩―親の恩、先祖の恩、仏さまの恩―のおかげで今の私があるとわきまえなさいということです。そうすれば、本当の幸せの世界があらわれてきます。
「ほとけ」とは何かと申しますと、これは言葉遊びですけれども、一切の悩み苦しみが「ほどけ」た状態ではないかと思います。一切の悩み苦しみをほどいて、仏となったのがお釈迦さまです。そして、ほどくことができずに「身・命・財」にとらわれてもがいているのが、私たちの姿ではないでしょうか。だから私たちは、苦しみの世界から絶対に救うと約束してくださった阿弥陀様のご本願を頼っていくしかないのです。
法然上人は「生けらば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん。とてもかくてもこの身には、思い煩うことぞなきと思いぬれば、死生ともに煩いなし」と教えてくださっています。阿弥陀様を頼ってお念仏を続けて生きていけば、いつか命が終わるときには浄土に往生させていただけます。ご本願に素直に甘えさせていただくときに、あらゆる煩いがなくなり、苦しみの生活から救われていく。これがお念仏の功徳です。阿弥陀様の大きな親心、大きな命のなかで私たちは生かされていることを感じ、お念仏を称えるなかに本当の幸せを味わっていただきたいと念願しております。
この稿は、平成27年7月31日、法然上人御堂(集会堂)で行われた第49回「暁天講座」から要旨を採録しました。
プロフィール
有本 亮啓(ありもと りょうけい)
1944年生まれ。佛教大学仏教学部卒業。大阪教区大鏡寺住職。永年、布教活動に従事し、総本山知恩院布教師会会長 浄土宗常任布教師等、数々の要職を歴任。著書に『下駄ばき説法』『今現在説法』など多数。