4月14日に熊本地方を襲った大型地震は、各地に甚大な被害をもたらした。余震が相次ぎ、復旧作業は思うように進まず、長期化する避難生活に住民たちは不安な日々を過ごしていた。そんななか、浄土宗の寺院は独自のネットワークを活かして被災地の支援に乗り出した。
想いをつなぐ寺院ネットワーク

災害活動拠点となった西福寺

全国寺院より届けられた救援物資
震災直後、知恩院は浄土宗と共同でブルーシート等の救援物資を被災地へ届け、その後も数度にわたり現地へお見舞いに伺った。知恩院を訪れた多くの人々から1,002,489円にのぼる義捐金を頂戴し、その想いを直接熊本へと届けた。今後も継続的に支援を続ける方針だ。
また福岡教区の林鐘院(りんしょういん)は、地震直後より各機関に救援を求めると同時に、インターネットのSNSやライン等を使って全国に支援を呼びかけ、自らのお寺を救援物資の集積所として開放するなど迅速な動きを見せた。
全国寺院から支援物資が次々と林鐘院に届けられ、寺の倉庫を埋め尽くした。人々の想いがこもった大量の救援物資は、林鐘院を中継して熊本教区の西福寺に搬送された。
熊本市内の西福寺は、現地の災害対策本部として、物資の集積所を兼ねた活動拠点となっていた。現場では、三宅晃洋教区長、池田集恵教化団長の指示のもと、熊本教区浄土宗青年会(以下 熊本浄青)をはじめとする青年僧たちが一丸となって救援活動を行っていた。支援の届かない被災寺院を中心に瓦礫の撤去を行い、物資の供給に奔走した。
青年僧が現場のニーズに即応

避難所に物資を届ける熊本浄青(花陵中学校)

倒壊した往生院の山門
地震発生翌日の4月15日より、被害の少なかった熊本県天草(あまくさ)地方の青年僧たちが、物資をかき集めて現地入りし、支援活動を開始した。次いで隣県の福岡、長崎、大分、三州教区の青年僧たちが続々と支援物資を携えて熊本入りした。まだ道路事情も悪く危険を伴う行程だったが、彼らの被災地を想う真摯な気持ちが車を走らせずにはいられなかったのだろう。
全国の寺院関係者から集められた物資は、250以上ある避難所や、支援の届きにくい老人ホーム、保育所等と連絡を取り、不足している物資をリストアップして即時に配達された。渋滞する市街地も地元の青年僧なら抜け道を使って迅速に物資を届けられる。また、以前本誌で紹介したテラ・ネット(代表 堀眞哲)や九州地区の個別チームが、孤立した町村や小規模避難所へ直接連絡を取り救援に向かっていた。
知恩院関係者が最初に熊本に入ったのは震災から5日後の4月19日だった。支援活動を続ける熊本浄青(会長 藤森法明)の青年僧たちにも明らかに疲れの色が見え始めていた。しかし、気丈にも「困ってる人がいるんだから、やらないわけにはいかないでしょ」と活動の手を休めようとしない。助けを求める人々の声が彼らを突き動かしていた。山門が倒壊した往生院では、檀信徒全てに「支援できることがあれば連絡ください」と伝えたという。自らの被災を顧みず、救援活動を優先しようという姿勢に胸を打たれた。
被災者」と「支援者」の垣根を越えて

各地で募金活動が行われた(写真は筑後浄土宗青年会)

避難生活を送る被災者(五福小学校)
避難所になっている学校を訪ねてみると、避難している子どもたちが支援物資の在庫を管理し、食事のメニューを考えて炊き出しをしている光景に出合った。
熊本浄青の僧侶もまた被災しながら支援を続けたし、東日本大震災で被災したときに支援してもらった僧侶が、今回は熊本に恩返しをしたいと期する声も聞いた。
思うに、苦しみを知る「被災者」だからこそ、「支援者」になれることもあるのだろう。
さらにいえば、天災地変が多発している現代では、今回の地震での被災を免れたとしても、次は自分の身に災害が降りかかるかもしれない。誰もが「被災者」になりうるし、その苦しみを想像すれば、誰もが「支援者」でありたいと思うだろう。
寺院のネットワークを通じて心のこもった支援の輪が広がり、どんな苦しみが訪れても助け合える社会が訪れることを願う。
(取材・文 福原徹心)