御法語
或る人、「上人の申させ給う御念仏は、念々ごとに仏の御心に適い候うらん」など申しけるを、「いかなれば」と上人返し問われければ、
「智者にておわしませば、名号の功徳をも詳しく知ろしめし、本願の様をも明らかに御心得ある故に」と申しけるとき、
「汝本願を信ずる事、まだしかりけり。弥陀如来の本願の名号は、木こり、草刈り、菜摘み、水汲む類ごときの者の、内外ともにかけて一文不通なるが、称うれば必ず生まると信じて、真実に願いて、常に念仏申すを最上の機とす。
もし智慧をもちて生死を離るべくば、源空いかでか彼の聖道門を捨てて、此の浄土門に趣くべきや。聖道門の修行は、智慧を極めて生死を離れ、浄土門の修行は、愚痴に還りて極楽に生まると知るべし」とぞ仰せられける。
現代語訳
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或る人、「上人の申させ給う御念仏は、念々ごとに仏の御心に適い候うらん」など申しけるを、「いかなれば」と上人返し問われければ、
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ある人が「法然上人がお称えになるお念仏は、その一念一念が〔阿弥陀〕仏のご意向に適っているのでしょうね」などと申し上げたのに対し、「どういうわけで」と、上人は問い返されました。そこで〔その人は、〕
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「智慧の深い方でいらっしゃるので、名号に具わる勝れた特性をも詳しくご存じで、本願のありさまをも、よくご理解なさっているからです」と申し上げました。そのとき〔上人は〕、
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「汝本願を信ずる事、まだしかりけり。弥陀如来の本願の名号は、木こり、草刈り、菜摘み、水汲む類ごときの者の、内外ともにかけて一文不通なるが、称うれば必ず生まると信じて、真実に願いて、常に念仏申すを最上の機とす。
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「あなたの本願への信心はその程度だったのですか。阿弥陀如来の本願である名号は、〔生業として〕木を切り、草を刈り、野菜を摘み、水を汲むような人々で、仏典と仏典以外の書物のいずれについても文字一つ知らない人が、〈称えれば必ず浄土に生まれる〉と信じて、いつわりのない心で願い、常に念仏をお称えする、そうした人を、〔救いの〕最適の対象者とするのです。
※まだしかりけり=不充分であった。
※内外ともにかけて=「内外」とは、内典(仏典)と外典(仏典以外の書物)。「かけて」は「両方兼ねて」の意。ただし「内外ともに欠けて」と考え、「内面の智慧も、外面の姿や行為も仏教の理想からは程遠く」と解することもできるか。