法然上人のお言葉― 元祖大師御法語 ―

前篇
第三章

聖浄二門しょうじょうにもん

念仏の修行は、智慧を極めて覚る道ではなく、愚痴に立ち戻って極楽に生まれる道である。

(勅伝第二十一巻)

御法語

ひと、「上人しょうにんもうさせたま御念仏おねんぶつは、念々ねんねんごとにほとけ御心みこころかなそうろうらん」などもうしけるを、「いかなれば」と上人しょうにんかえわれければ、

智者ちしゃにておわしませば、名号みょうごう功徳くどくをもくわしくろしめし、本願ほんがんさまをもあきらかに御心得おんこころえあるゆえに」ともうしけるとき、

なんじ本願ほんがんしんずること、まだしかりけり。弥陀如来みだにょらい本願ほんがん名号みょうごうは、こり、くさり、み、みずたぐいごときのものの、内外ないげともにかけて一文不通いちもんふつうなるが、となうればかならまるとしんじて、真実しんじつねがいて、つね念仏申ねんぶつもうすを最上さいじょうとす。

もし智慧ちえをもちて生死しょうじはなるべくば、源空げんくういかでか聖道門しょうどうもんてて、浄土門じょうどもんおもむくべきや。聖道門しょうどうもん修行しゅぎょうは、智慧ちえきわめて生死しょうじはなれ、浄土門じょうどもん修行しゅぎょうは、愚痴ぐちかえりて極楽ごくらくまるとるべし」とぞおおせられける。

現代語訳

ひと、「上人しょうにんもうさせたま御念仏おねんぶつは、念々ねんねんごとにほとけ御心みこころかなそうろうらん」などもうしけるを、「いかなれば」と上人しょうにんかえわれければ、

ある人が「法然上人がお称えになるお念仏は、その一念一念が〔阿弥陀〕仏のご意向にかなっているのでしょうね」などと申し上げたのに対し、「どういうわけで」と、上人は問い返されました。そこで〔その人は、〕

智者ちしゃにておわしませば、名号みょうごう功徳くどくをもくわしくろしめし、本願ほんがんさまをもあきらかに御心得おんこころえあるゆえに」ともうしけるとき、

「智慧の深い方でいらっしゃるので、名号にそなわる勝れた特性をも詳しくご存じで、本願のありさまをも、よくご理解なさっているからです」と申し上げました。そのとき〔上人は〕、

なんじ本願ほんがんしんずること、まだしかりけり。弥陀如来みだにょらい本願ほんがん名号みょうごうは、こり、くさり、み、みずたぐいごときのものの、内外ないげともにかけて一文不通いちもんふつうなるが、となうればかならまるとしんじて、真実しんじつねがいて、つね念仏申ねんぶつもうすを最上さいじょうとす。

「あなたの本願への信心はその程度だったのですか。阿弥陀如来の本願である名号は、〔生業なりわいとして〕木を切り、草を刈り、野菜を摘み、水を汲むような人々で、仏典と仏典以外の書物のいずれについても文字一つ知らない人が、〈称えれば必ず浄土に生まれる〉と信じて、いつわりのない心で願い、常に念仏をお称えする、そうした人を、〔救いの〕最適の対象者とするのです。

※まだしかりけり=不充分であった。
※内外ともにかけて=「内外」とは、内典(仏典)と外典(仏典以外の書物)。「かけて」は「両方兼ねて」の意。ただし「内外ともに欠けて」と考え、「内面の智慧も、外面の姿や行為も仏教の理想からは程遠く」と解することもできるか。

もし智慧ちえをもちて生死しょうじはなるべくば、源空げんくういかでか聖道門しょうどうもんてて、浄土門じょうどもんおもむくべきや。聖道門しょうどうもん修行しゅぎょうは、智慧ちえきわめて生死しょうじはなれ、浄土門じょうどもん修行しゅぎょうは、愚痴ぐちかえりて極楽ごくらくまるとるべし」とぞおおせられける。

もしも智慧によって迷いの境涯を離れることができるならば、私、源空がどうしてあの聖道門を捨てて、この浄土門に帰依するでしょうか。聖道門の修行は、智慧を極めて迷いを離れ、浄土門の修行は、愚かな自分に立ち返って極楽に生まれると理解なさい」と、おっしゃったのです。