御法語
念仏往生の誓願は、平等の慈悲に住して発し給いたる事なれば、人を嫌う事は候わぬなり。仏の御心は、慈悲をもて体とする事にて候うなり。されば観無量寿経には、「仏心というは、大慈悲これなり」と説かれて候。
善導和尚、この文を受けて、「この平等の慈悲をもては、普く一切を摂す」と釈し給えり。「一切」の言、広くして、漏るる人候うべからず。されば念仏往生の願は、これ弥陀如来の本地の誓願なり。余の種々の行は、本地の誓いにあらず。
釈迦も世に出で給う事は、弥陀の本願を説かんと思し食す御心にて候えども、衆生の機縁に随い給う日は、余の種々の行をも説き給うは、これ随機の法なり。仏の自らの御心の底には候わず。
されば念仏は弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐なり。余の種々の行には似ず候うなり。
現代語訳
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念仏往生の誓願は、平等の慈悲に住して発し給いたる事なれば、人を嫌う事は候わぬなり。仏の御心は、慈悲をもて体とする事にて候うなり。されば観無量寿経には、「仏心というは、大慈悲これなり」と説かれて候。
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念仏往生の誓願は、平等の慈悲に立って起こされたものですから、人を分け隔てすることはありません。仏の御心は慈悲そのものであります。だからこそ『観無量寿経』には、「仏の心とは、大慈悲に他ならない」と説かれているのです。
※仏心と…これなり=阿弥陀仏の真の姿を説く「真身観文」からの引用(『浄全』一・四四頁)。
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善導和尚、この文を受けて、「この平等の慈悲をもては、普く一切を摂す」と釈し給えり。「一切」の言、広くして、漏るる人候うべからず。されば念仏往生の願は、これ弥陀如来の本地の誓願なり。余の種々の行は、本地の誓いにあらず。
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善導和尚はこの一文を受けて、「〔阿弥陀仏は〕この平等の慈悲によって、あまねく一切〔の衆生〕を救い取る」と解釈しておられます。「一切」という言葉〔の意味〕は広いので、もれ落ちる人のいるはずはありません。ですから念仏往生の願は、阿弥陀仏が菩薩であった時の願なのです。念仏以外の様々な修行は、その時の誓いではありません。
※この…摂す=『観経疏』「定善義」(『浄全』二・四九頁下)。
※本地=もとの姿。ここでは法蔵菩薩。 -
釈迦も世に出で給う事は、弥陀の本願を説かんと思し食す御心にて候えども、衆生の機縁に随い給う日は、余の種々の行をも説き給うは、これ随機の法なり。仏の自らの御心の底には候わず。
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釈尊が、この世にお出ましになったのも、阿弥陀仏の本願を説こうとお考えになった御心からでありますが、衆生の能力や状況に合わせられた折には、念仏以外の様々な修行をもお説きになられました。これは〔あくまでも〕聞き手に応じて説かれた教えであります。釈尊ご自身の御心の奥底から出たものではありません。
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されば念仏は弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐なり。余の種々の行には似ず候うなり。
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ですから、念仏は、阿弥陀仏にとっても衆生に利益を与えるための本願であり、釈尊にとっても世にお出ましになった本意であります。その他の様々な修行とは異なるのです。