御法語
ただ心の善悪をも顧みず、罪の軽き重きをも沙汰せず、心に「往生せん」と欲いて、口に南無阿弥陀仏と称えては、声につきて決定往生の思いをなすべし。
その決定心によりてすなわち往生の業は定まるなり。かく心得ねば、往生は不定なり。往生は、不定と思えばやがて不定なり。一定と思えば一定する事にて候うなり。
されば詮は、深く信ずる心と申し候うは、「南無阿弥陀仏と申せば、その仏の誓いにて、いかなる身をも嫌わず、一定迎え給うぞ」と深く頼みて、いかなるとがをも顧みず、疑う心の少しもなきを申し候うなり。
現代語訳
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ただ心の善悪をも顧みず、罪の軽き重きをも沙汰せず、心に「往生せん」と欲いて、口に南無阿弥陀仏と称えては、声につきて決定往生の思いをなすべし。
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ただ心の善悪をも顧みず、罪の軽重をも問題とせず、心に「往生したい」と願って、口に「南無阿弥陀仏」と称えては、声にあわせて「必ず往生できる」という思いを抱きなさい。
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その決定心によりてすなわち往生の業は定まるなり。かく心得ねば、往生は不定なり。往生は、不定と思えばやがて不定なり。一定と思えば一定する事にて候うなり。
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その「必ず往生できる」という思いによって、たちまち念仏による往生が確かなものとなるのです。このように心得ないと、往生は不確かです。「往生は不確かだ」と思えば、そのまま不確かです。「確実だ」と思えば、確実なものとなるのです。
※往生の業は定まる=「念仏という往生のための行為が、報いの定まったものとなる」「往生が保証される」の意。
※往生は…候うなり=『徒然草』第三十九段で言及される。 -
されば詮は、深く信ずる心と申し候うは、「南無阿弥陀仏と申せば、その仏の誓いにて、いかなる身をも嫌わず、一定迎え給うぞ」と深く頼みて、いかなるとがをも顧みず、疑う心の少しもなきを申し候うなり。
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ですから結局は、〔この〕深く信じる心というのは、「南無阿弥陀仏とお称えすれば、その阿弥陀仏の誓いによって、どのような身でも分け隔てなく、確実にお迎え下さるのだ」と、深く頼みとして、どのような〔わが身の〕罪も顧みず、疑う心が少しもないことを言うのであります。