法然上人のお言葉― 元祖大師御法語 ―

前篇
第十五章

信行双修しんぎょうそうしゅ

念仏は一遍でも往生できると信じつつ一生涯勤めよ。

(勅伝第二十一巻)

御法語

一念十念いちねんじゅうねん往生おうじょうをす」といえばとて、念仏ねんぶつ疎相そそうもうすは、しんぎょうさまたぐるなり。「念々不捨者ねんねんふしゃしゃ」といえばとて、一念いちねん不定ふじょうおもうは、ぎょうしんさまたぐるなり。しんをば一念いちねんまるとしんじ、ぎょうをば一形いちぎょうはげむべし。

また、一念いちねん不定ふじょうおもうは、念々ねんねん念仏ねんぶつごとに、不信ふしん念仏ねんぶつになるなり。そのゆえは、阿弥陀仏あみだぶつは、一念いちねん一度いちど往生おうじょうをあてたまえるがんなれば、ねんごとに往生おうじょうごうとなるなり。

現代語訳

一念十念いちねんじゅうねん往生おうじょうをす」といえばとて、念仏ねんぶつ疎相そそうもうすは、しんぎょうさまたぐるなり。「念々不捨者ねんねんふしゃしゃ」といえばとて、一念いちねん不定ふじょうおもうは、ぎょうしんさまたぐるなり。しんをば一念いちねんまるとしんじ、ぎょうをば一形いちぎょうはげむべし。

「一念や十念でも往生する」と説かれるからといって、念仏をおざなりに称えるのは、〔本願への〕信心が念仏の行を妨げているのです。「念仏し続けて片時かたときもやめないならば〔往生できる〕」と解釈されるからといって、「一念では〔往生が〕不確かだ」と思うのは、〔念仏の〕行が〔本願への〕信を妨げているのです。信心については「一念で往生できる」と信じ、行については、生涯続けて励むべきです。

また、一念いちねん不定ふじょうおもうは、念々ねんねん念仏ねんぶつごとに、不信ふしん念仏ねんぶつになるなり。そのゆえは、阿弥陀仏あみだぶつは、一念いちねん一度いちど往生おうじょうをあてたまえるがんなれば、ねんごとに往生おうじょうごうとなるなり。

また「一念では〔往生が〕不確かだ」と思うならば、一声一声の念仏が、それぞれに不信の念仏となります。そのわけは、阿弥陀仏〔の本願〕は、一念に一度の往生をあてがわれた願なので、念仏するたびにそれが往生のための行いとなるからです。