御法語
「一念十念に往生をす」といえばとて、念仏を疎相に申すは、信が行を妨ぐるなり。「念々不捨者」といえばとて、一念を不定に思うは、行が信を妨ぐるなり。信をば一念に生まると信じ、行をば一形に励むべし。
また、一念を不定に思うは、念々の念仏ごとに、不信の念仏になるなり。その故は、阿弥陀仏は、一念に一度の往生をあて置き給える願なれば、念ごとに往生の業となるなり。
現代語訳
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「一念十念に往生をす」といえばとて、念仏を疎相に申すは、信が行を妨ぐるなり。「念々不捨者」といえばとて、一念を不定に思うは、行が信を妨ぐるなり。信をば一念に生まると信じ、行をば一形に励むべし。
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「一念や十念でも往生する」と説かれるからといって、念仏をおざなりに称えるのは、〔本願への〕信心が念仏の行を妨げているのです。「念仏し続けて片時もやめないならば〔往生できる〕」と解釈されるからといって、「一念では〔往生が〕不確かだ」と思うのは、〔念仏の〕行が〔本願への〕信を妨げているのです。信心については「一念で往生できる」と信じ、行については、生涯続けて励むべきです。
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また、一念を不定に思うは、念々の念仏ごとに、不信の念仏になるなり。その故は、阿弥陀仏は、一念に一度の往生をあて置き給える願なれば、念ごとに往生の業となるなり。
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また「一念では〔往生が〕不確かだ」と思うならば、一声一声の念仏が、それぞれに不信の念仏となります。そのわけは、阿弥陀仏〔の本願〕は、一念に一度の往生をあてがわれた願なので、念仏するたびにそれが往生のための行いとなるからです。