法然上人のお言葉― 元祖大師御法語 ―

前篇
第十六章

他力念仏たりきねんぶつ

他力念仏・自力念仏の分かれ目は回数の多少によらず、本願他力に頼るか頼らないかによる。

(勅伝第二十一巻)

御法語

念仏ねんぶつかずおおもうものをば、自力じりきはげむとこと、これまたものもおぼえずあさましき僻事ひがごとなり。ただ一念二念いちねんにねんとなうとも、自力じりきこころならんひとは、自力じりき念仏ねんぶつとすべし。

千遍万遍せんべんまんべんとなえ、百日千日ひゃくにちせんにち夜昼よるひるはげつとむとも、ひとえ願力がんりきたのみ、他力たりきあおぎたらんひと念仏ねんぶつは、声々念々しょうしょうねんねん、しかしながら他力たりき念仏ねんぶつにてあるべし

されば三心さんじんおこしたるひと念仏ねんぶつは、日々夜々にちにちやや時々剋々じじこくこくとなうれども、しかしながら願力がんりきあおぎ、他力たりきたのみたるこころにてとなたれば、かけてもふれても自力じりき念仏ねんぶつとはうべからず。

現代語訳

念仏ねんぶつかずおおもうものをば、自力じりきはげむとこと、これまたものもおぼえずあさましき僻事ひがごとなり。ただ一念二念いちねんにねんとなうとも、自力じりきこころならんひとは、自力じりき念仏ねんぶつとすべし。

「念仏の数を多く称えるのは自力を励む人だ」と言うこと、これまた道理を外れ、あきれる程の心得違いです。わずか一念二念を称えても、自力の心構えである人〔の念仏〕は、自力の念仏とすべきであります。

千遍万遍せんべんまんべんとなえ、百日千日ひゃくにちせんにち夜昼よるひるはげつとむとも、ひとえ願力がんりきたのみ、他力たりきあおぎたらんひと念仏ねんぶつは、声々念々しょうしょうねんねん、しかしながら他力たりき念仏ねんぶつにてあるべし

千遍万遍を称え、百日千日、昼夜に励み努めても、ひたすら〔阿弥陀仏の〕願力を頼みとし、他力を尊ぶ人の念仏は、一声一声が、そのまま全部他力の念仏であるとすべきです。

されば三心さんじんおこしたるひと念仏ねんぶつは、日々夜々にちにちやや時々剋々じじこくこくとなうれども、しかしながら願力がんりきあおぎ、他力たりきたのみたるこころにてとなたれば、かけてもふれても自力じりき念仏ねんぶつとはうべからず。

それゆえ三心を起こした人の念仏は、毎日毎夜、絶え間なく称えたとしても、それらはすべて願力を尊び、他力を頼みとする心で称えているのですから、決して自力の念仏と言うべきではありません。

※かけてもふれても=少しも。全く。