御法語
念仏を申し候うことは、様々の義候えども、ただ六字を称うる中に、一切の行はおさまり候うなり。心には本願を頼み、口には名号を称え、手には念珠を取るばかりなり。常に心をかくるが、極めたる決定往生の業にて候うなり。
念仏の行は、もとより行住坐臥、時処諸縁を嫌わず、身口の不浄を嫌わぬ行にて、易行往生と申し候うなり。
ただし、心を浄くして申すを、第一の行と申し候うなり。人をも左様に御勧め候うべし。ゆめゆめ此の御心は、いよいよ強くならせ給い候うべし。
現代語訳
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念仏を申し候うことは、様々の義候えども、ただ六字を称うる中に、一切の行はおさまり候うなり。心には本願を頼み、口には名号を称え、手には念珠を取るばかりなり。常に心をかくるが、極めたる決定往生の業にて候うなり。
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念仏を称えることには、様々な意味がありますが、ただ〔南無阿弥陀仏の〕六字を称える中に、一切の行がおさまっています。心には本願を頼みとして、口には名号を称え、手には数珠を繰るだけです。常に〔そのように〕心がけることが、必ず極楽往生の叶う、この上ない行であります。
※様々の義=三心・四修など。「一枚起請文」(前篇第二十三章)に「ただし三心・四修と申すことの候うは…こもり候うなり」とあり、二祖聖光『末代念仏授手印』(『浄全』十・八頁下)に「わが法然上人ののたまわく、善導の御釈を拝見するに源空が目には三心も五念も四修も皆ともに南無阿弥陀仏と見ゆるなり」とある。
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念仏の行は、言うまでもなく、立ち居起き臥しや、時、所、状況を選ばず、身と口との不浄を問わない行であって、〔それによるのを〕易しい行による往生と申すのです。
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ただし、心を浄くして申すを、第一の行と申し候うなり。人をも左様に御勧め候うべし。ゆめゆめ此の御心は、いよいよ強くならせ給い候うべし。
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ただし、心を浄くして称える念仏を、最上の行と申します。他の人にも、そのようにお勧め下さい。つとめてこの御心を、よりいっそう強くなさって下さいますように 。