法然上人のお言葉― 元祖大師御法語 ―

前篇
第十七章

易行往生いぎょうおうじょう

念仏は多くの意味を伴うが、南無阿弥陀仏と称える中にすべてこもっている。努めて心を清くして念仏せよ。

(勅伝第二十五巻)

御法語

念仏ねんぶつもうそうろうことは、様々ようよう義候ぎそうらえども、ただ六字ろくじとなうるうちに、一切いっさいぎょうはおさまりそうろうなり。こころには本願ほんがんたのみ、くちには名号みょうごうとなえ、には念珠ねんじゅるばかりなり。つねこころをかくるが、きわめたる決定往生けつじょうおうじょうごうにてそうろうなり。

念仏ねんぶつぎょうは、もとより行住坐臥ぎょうじゅうざが時処諸縁じしょしょえんきらわず、身口しんく不浄ふじょうきらわぬぎょうにて、易行往生いぎょうおうじょうもうそうろうなり。

ただし、こころきよくしてもうすを、第一だいいちぎょうもうそうろうなり。ひとをも左様さようすすそうろうべし。ゆめゆめ御心おんこころは、いよいよつよくならせたまそうろうべし。

現代語訳

念仏ねんぶつもうそうろうことは、様々ようよう義候ぎそうらえども、ただ六字ろくじとなうるうちに、一切いっさいぎょうはおさまりそうろうなり。こころには本願ほんがんたのみ、くちには名号みょうごうとなえ、には念珠ねんじゅるばかりなり。つねこころをかくるが、きわめたる決定往生けつじょうおうじょうごうにてそうろうなり。

念仏を称えることには、様々な意味がありますが、ただ〔南無阿弥陀仏の〕六字を称える中に、一切の行がおさまっています。心には本願を頼みとして、口には名号を称え、手には数珠をるだけです。常に〔そのように〕心がけることが、必ず極楽往生の叶う、この上ない行であります。

※様々の義=三心・四修など。「一枚起請文」(前篇第二十三章)に「ただし三心・四修と申すことの候うは…こもり候うなり」とあり、二祖聖光『末代念仏授手印』(『浄全』十・八頁下)に「わが法然上人ののたまわく、善導の御釈を拝見するに源空が目には三心も五念も四修も皆ともに南無阿弥陀仏と見ゆるなり」とある。

念仏ねんぶつぎょうは、もとより行住坐臥ぎょうじゅうざが時処諸縁じしょしょえんきらわず、身口しんく不浄ふじょうきらわぬぎょうにて、易行往生いぎょうおうじょうもうそうろうなり。

念仏の行は、言うまでもなく、立ち居起き臥しや、時、所、状況を選ばず、身と口との不浄を問わない行であって、〔それによるのを〕易しい行による往生と申すのです。

ただし、こころきよくしてもうすを、第一だいいちぎょうもうそうろうなり。ひとをも左様さようすすそうろうべし。ゆめゆめ御心おんこころは、いよいよつよくならせたまそうろうべし。

ただし、心を浄くして称える念仏を、最上の行と申します。他の人にも、そのようにお勧め下さい。つとめてこの御心みこころを、よりいっそう強くなさって下さいますように 。