御法語
他力本願に乗ずるに二つあり。乗ぜざるに二つあり。
乗ぜざるに二つというは、一つには、罪を造るとき乗ぜず。その故は、「かくのごとく罪を造れば、念仏申すとも往生不定なり」と思うときに乗ぜず。
二つには、道心の発るとき乗ぜず。その故は、「同じく念仏申すとも、かくのごとく道心ありて申さんずる念仏にてこそ往生はせんずれ。無道心にては、念仏すとも叶うべからず」と、道心を先として、本願を次に思うとき乗ぜざるなり。
次に、本願に乗ずるに二つの様というは、一つには罪造るとき乗ずるなり。その故は、「かくのごとく罪を造れば、決定して地獄に堕つべし。しかるに本願の名号を称うれば、決定往生せん事のうれしさよ」と悦ぶときに乗ずるなり。
二つには、道心発るとき乗ずるなり。その故は、「この道心にて往生すべからず。これほどの道心は、無始よりこのかた発れども、いまだ生死を離れず。故に、道心の有無を論ぜず、造罪の軽重を言わず、ただ本願の称名を念々相続せん力によりてぞ、往生は遂ぐべき」と思うときに、他力本願に乗ずるなり。
現代語訳
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他力本願に乗ずるに二つあり。乗ぜざるに二つあり。
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〔阿弥陀仏の〕他力本願に乗じる場合に二つがあり、乗じない場合に二つがあります。
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乗ぜざるに二つというは、一つには、罪を造るとき乗ぜず。その故は、「かくのごとく罪を造れば、念仏申すとも往生不定なり」と思うときに乗ぜず。
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「乗じない場合に二つ」とは 、第一に、罪を犯す時に乗じません。 そのわけは、「このように罪を犯せば、念仏を称えても往生は確かでない」と思う時には乗じないからです。
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二つには、道心の発るとき乗ぜず。その故は、「同じく念仏申すとも、かくのごとく道心ありて申さんずる念仏にてこそ往生はせんずれ。無道心にては、念仏すとも叶うべからず」と、道心を先として、本願を次に思うとき乗ぜざるなり。
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第二に、菩提心が起こる時に乗じません。そのわけは、「同じように念仏を称えても、このように菩提心があって称える念仏によってこそ、往生できるであろう。菩提心がなくては念仏しても叶うはずがない」と〔自らの〕菩提心を優先させ、〔仏の〕本願を二の次に思う時には乗じないからです。
※道心=ここでは覚りを求める心。菩提心。
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次に、本願に乗ずるに二つの様というは、一つには罪造るとき乗ずるなり。その故は、「かくのごとく罪を造れば、決定して地獄に堕つべし。しかるに本願の名号を称うれば、決定往生せん事のうれしさよ」と悦ぶときに乗ずるなり。
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次に、本願に乗じる場合の二つのありようとは、第一に、罪を犯す時に乗じます。 そのわけは、「このように罪を犯せば、必ず地獄に堕ちるだろう。けれども、本願の名号を称えれば、必ず往生できるとは何と喜ばしいことか」と喜ぶ時には乗じるからです。
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二つには、道心発るとき乗ずるなり。その故は、「この道心にて往生すべからず。これほどの道心は、無始よりこのかた発れども、いまだ生死を離れず。故に、道心の有無を論ぜず、造罪の軽重を言わず、ただ本願の称名を念々相続せん力によりてぞ、往生は遂ぐべき」と思うときに、他力本願に乗ずるなり。
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第二に、菩提心が起こる時に乗じるのです。そのわけは、「この菩提心によっては往生できない。この程度の菩提心は、遠い過去から今まで〔何度も〕起こしてきたが、いまだ私は迷いの境涯を離れてはいない。だから菩提心の有無に関わらず、犯した罪の軽さ重さを問わず、ただ本願の称名念仏を絶え間なく続ける力によってこそ、往生は遂げることができる」と思う時には他力本願に乗じるからです。