法然上人のお言葉― 元祖大師御法語 ―

前篇
第十九章

乗仏本願じょうぶつほんがん

阿弥陀仏の本願の力に乗じて往生できるか否かは、本願を最も重視するか否かによる。

(勅伝第二十一巻)

御法語

他力本願たりきほんがんじょうずるにふたつあり。じょうぜざるにふたつあり。

じょうぜざるにふたつというは、ひとつには、つみつくるときじょうぜず。そのゆえは、「かくのごとくつみつくれば、念仏ねんぶつもうすとも往生おうじょう不定ふじょうなり」とおもうときにじょうぜず。

ふたつには、道心どうしんおこるときじょうぜず。そのゆえは、「おなじく念仏ねんぶつもうすとも、かくのごとく道心どうしんありてもうさんずる念仏ねんぶつにてこそ往生おうじょうはせんずれ。無道心むどうしんにては、念仏ねんぶつすともかなうべからず」と、道心どうしんさきとして、本願ほんがんつぎおもうときじょうぜざるなり。

つぎに、本願ほんがんじょうずるにふたつのようというは、ひとつにはつみつくるときじょうずるなり。そのゆえは、「かくのごとくつみつくれば、決定けつじょうして地獄じごくつべし。しかるに本願ほんがん名号みょうごうとなうれば、決定けつじょう往生おうじょうせんことのうれしさよ」とよろこぶときにじょうずるなり。

ふたつには、道心どうしんおこるときじょうずるなり。そのゆえは、「この道心どうしんにて往生おうじょうすべからず。これほどの道心どうしんは、無始むしよりこのかたおこれども、いまだ生死しょうじはなれず。かるがゆえに、道心どうしん有無うむろんぜず、造罪ぞうざい軽重きょうじゅうわず、ただ本願ほんがん称名しょうみょう念々相続ねんねんそうぞくせんちからによりてぞ、往生おうじょうぐべき」とおもうときに、他力本願たりきほんがんじょうずるなり。

現代語訳

他力本願たりきほんがんじょうずるにふたつあり。じょうぜざるにふたつあり。

〔阿弥陀仏の〕他力本願に乗じる場合に二つがあり、乗じない場合に二つがあります。

じょうぜざるにふたつというは、ひとつには、つみつくるときじょうぜず。そのゆえは、「かくのごとくつみつくれば、念仏ねんぶつもうすとも往生おうじょう不定ふじょうなり」とおもうときにじょうぜず。

「乗じない場合に二つ」とは 、第一に、罪を犯す時に乗じません。 そのわけは、「このように罪を犯せば、念仏を称えても往生は確かでない」と思う時には乗じないからです。

ふたつには、道心どうしんおこるときじょうぜず。そのゆえは、「おなじく念仏ねんぶつもうすとも、かくのごとく道心どうしんありてもうさんずる念仏ねんぶつにてこそ往生おうじょうはせんずれ。無道心むどうしんにては、念仏ねんぶつすともかなうべからず」と、道心どうしんさきとして、本願ほんがんつぎおもうときじょうぜざるなり。

第二に、菩提心が起こる時に乗じません。そのわけは、「同じように念仏を称えても、このように菩提心があって称える念仏によってこそ、往生できるであろう。菩提心がなくては念仏しても叶うはずがない」と〔自らの〕菩提心を優先させ、〔仏の〕本願を二の次に思う時には乗じないからです。

※道心=ここでは覚りを求める心。菩提心。

つぎに、本願ほんがんじょうずるにふたつのようというは、ひとつにはつみつくるときじょうずるなり。そのゆえは、「かくのごとくつみつくれば、決定けつじょうして地獄じごくつべし。しかるに本願ほんがん名号みょうごうとなうれば、決定けつじょう往生おうじょうせんことのうれしさよ」とよろこぶときにじょうずるなり。

次に、本願に乗じる場合の二つのありようとは、第一に、罪を犯す時に乗じます。 そのわけは、「このように罪を犯せば、必ず地獄に堕ちるだろう。けれども、本願の名号を称えれば、必ず往生できるとは何と喜ばしいことか」と喜ぶ時には乗じるからです。

ふたつには、道心どうしんおこるときじょうずるなり。そのゆえは、「この道心どうしんにて往生おうじょうすべからず。これほどの道心どうしんは、無始むしよりこのかたおこれども、いまだ生死しょうじはなれず。かるがゆえに、道心どうしん有無うむろんぜず、造罪ぞうざい軽重きょうじゅうわず、ただ本願ほんがん称名しょうみょう念々相続ねんねんそうぞくせんちからによりてぞ、往生おうじょうぐべき」とおもうときに、他力本願たりきほんがんじょうずるなり。

第二に、菩提心が起こる時に乗じるのです。そのわけは、「この菩提心によっては往生できない。この程度の菩提心は、遠い過去から今まで〔何度も〕起こしてきたが、いまだ私は迷いの境涯を離れてはいない。だから菩提心の有無に関わらず、犯した罪の軽さ重さを問わず、ただ本願の称名念仏を絶え間なく続ける力によってこそ、往生は遂げることができる」と思う時には他力本願に乗じるからです。