法然上人のお言葉― 元祖大師御法語 ―

前篇
第二十四章

別時念仏べつじねんぶつ

日常の念仏だけで充分ではあるが、つい疎かになりがちであるから、時には時間を設けて集中的に励むべきである。

(勅伝第二十一巻)

御法語

時々ときどき別時べつじ念仏ねんぶつしゅして、こころをもをもはげまし、調ととのえ、すすむべきなり。

日々ひび六万遍七万遍ろくまんべんしちまんべんとなえば、さてもりぬべきことにてあれども、ひとこころざまは、いたくれ、みみれぬれば、いらいらと、すすむこころすくなく、れは悤々そうそうとして、心閑こころしずかならぬようにてのみ疎略そりゃくになりゆくなり。

そのこころをすすめんためには、時々ときどき別時べつじ念仏ねんぶつしゅすべきなり。しかれば善導和尚ぜんどうかしょうねんごろにはげまし、恵心えしん先徳せんとくくわしくおしえられたり。

道場どうじょうをもひきつくろい、花香けこうをもそなえたてまつらんこと、ただちからえたらんにしたがうべし。またをもこときよめて道場どうじょうりて、あるい三時さんじあるい六時ろくじなんどに念仏ねんぶつすべし。もし同行どうぎょうなど数多あまたあらんときは、わるわるりて、不断念仏ふだんねんぶつにもしゅすべし。斯様かようのことは、各々おのおのようしたがいてはからうべし。

現代語訳

時々ときどき別時べつじ念仏ねんぶつしゅして、こころをもをもはげまし、調ととのえ、すすむべきなり。

時おり別時念仏を修めて、心身ともに奮い起こし、調ととのえ、いざなうべきです。

日々ひび六万遍七万遍ろくまんべんしちまんべんとなえば、さてもりぬべきことにてあれども、ひとこころざまは、いたくれ、みみれぬれば、いらいらと、すすむこころすくなく、れは悤々そうそうとして、心閑こころしずかならぬようにてのみ疎略そりゃくになりゆくなり。

毎日六万遍七万遍を称えるならば、それで充分でありましょうが、人の心のあり方は、たいそう見慣れ、聞き慣れてしまうと、せわしく、いざなう心が少なく、毎日が忙しく、ただただ心が落ち着かないありさまとなって、念仏がおろそかになっていくものです。

そのこころをすすめんためには、時々ときどき別時べつじ念仏ねんぶつしゅすべきなり。しかれば善導和尚ぜんどうかしょうねんごろにはげまし、恵心えしん先徳せんとくくわしくおしえられたり。

そうした心をいざなうためには、時おり別時念仏を修めるべきです。それゆえ善導和尚も心をめて奨励しょうれいされ、徳ある先人、恵心僧都そうずも詳しく教授されました。

※然れば…励まし=善導『観念法門』(『浄全』四・二二六頁上〜下)。
※恵心…教えられたり=源信『往生要集』大文第六「別時念仏」(『浄全』十五・一〇八頁上)。

道場どうじょうをもひきつくろい、花香けこうをもそなえたてまつらんこと、ただちからえたらんにしたがうべし。またをもこときよめて道場どうじょうりて、あるい三時さんじあるい六時ろくじなんどに念仏ねんぶつすべし。もし同行どうぎょうなど数多あまたあらんときは、わるわるりて、不断念仏ふだんねんぶつにもしゅすべし。斯様かようのことは、各々おのおのようしたがいてはからうべし。

道場を立派に整え、花や香をお供えすることは、ただ力の及ぶ範囲で結構です。また、自分の身体も、特に清潔にして道場に入り、ある場合には六時間、ある場合には十二時間というように念仏すべきです。もしも同行者などが多くある時には、交替で〔道場に〕入り、不断念仏としても修めるのがよいでしょう。こうしたことは、それぞれの事情に応じて取り計らうことです。

※三時…六時=「半日あるいは一昼夜」という解釈もある。
※なんど=など。