御法語
釈迦如来、この経の中に、定散のもろもろの行を説き終わりて後に、正しく阿難に付属し給う時には、上に説くところの散善の三福業、定善の十三観をば付属せずして、ただ念仏の一行を付属し給えり。
経に曰く、「仏、阿難に告げ給わく、汝好く是の語を持て。是の語を持てとは、即ち是れ無量寿仏の名を持てとなり」。
善導和尚、この文を釈して宣わく、「仏、阿難に告げ給わく、汝好く是の語を持てより已下は、正しく弥陀の名号を付属して、遐代に流通し給うことを明す。上来、定散両門の益を説くといえども、仏の本願に望むれば、意、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるに在り」。
この定散のもろもろの行は、弥陀の本願にあらざるが故に、釈迦如来の、往生の行を付属し給うに、余の定善・散善をば付属せずして、念仏はこれ弥陀の本願なるが故に、正しく選びて本願の行を付属し給えるなり。
今、釈迦の教えに随いて往生を求むる者、付属の念仏を修して釈迦の御心に適うべし。これにつけても又よくよく御念仏候うて、仏の付属に適わせ給うべし。
現代語訳
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釈迦如来、この経の中に、定散のもろもろの行を説き終わりて後に、正しく阿難に付属し給う時には、上に説くところの散善の三福業、定善の十三観をば付属せずして、ただ念仏の一行を付属し給えり。
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釈尊は、『観無量寿経』の中で〔極楽往生のための修行として、精神を統一して行う〕定善と〔通常の心のままで行う〕散善との、様々な行を説き終わった後、まさしく弟子阿難に教えを託される段になると、それまでに述べられた、散善の功徳ある三種の行いや、定善の十三種の観想を託されずに、ただ念仏の一行のみを託されました。
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経に曰く、「仏、阿難に告げ給わく、汝好く是の語を持て。是の語を持てとは、即ち是れ無量寿仏の名を持てとなり」。
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『観無量寿経』には「釈尊は阿難に告げられた。〈汝はこの語をよく保て。この語を保てとは、無量寿仏の名号を保てということである〉」とあります。
※仏…持てとなり=『観無量寿経』(『浄全』一・五一頁)。
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善導和尚、この文を釈して宣わく、「仏、阿難に告げ給わく、汝好く是の語を持てより已下は、正しく弥陀の名号を付属して、遐代に流通し給うことを明す。上来、定散両門の益を説くといえども、仏の本願に望むれば、意、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるに在り」。
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善導和尚はこの経文を解釈して「〈釈尊は阿難に告げられた。汝はこの語をよく保て〉以下の語は、まさしく〔釈尊が〕阿弥陀仏の名号を〔阿難に〕託し、それを遥か後の世にまで広く伝えようとされていることを表わしている。この、名号を託する段に至るまで、定善・散善の二種の修行の利益を説いてこられたが、阿弥陀仏の本願に照らせば、釈尊の意図は、人々にひたすら阿弥陀仏の名号を称えさせることにある」と述べておられます。
※仏…称せしむるに在り=『観経疏』「散善義」(『浄全』二・七一頁下)。
※上来=前からここに至るまで。 -
この定散のもろもろの行は、弥陀の本願にあらざるが故に、釈迦如来の、往生の行を付属し給うに、余の定善・散善をば付属せずして、念仏はこれ弥陀の本願なるが故に、正しく選びて本願の行を付属し給えるなり。
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この定善・散善の様々な行は、阿弥陀仏の本願ではないから、釈尊が往生の行を託される際には、念仏以外の定善・散善を託されず、念仏は阿弥陀仏の本願であるから、まさしく選んで、本願の行である念仏を託されたのです。
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今、釈迦の教えに随いて往生を求むる者、付属の念仏を修して釈迦の御心に適うべし。これにつけても又よくよく御念仏候うて、仏の付属に適わせ給うべし。
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今、釈尊の教えに従って往生を求める人は、釈尊が阿難に託された念仏を修めて、釈尊のご遺志に従うのがよいでしょう。このことからしてもまた、よくよくお念仏をなさり、釈尊が〔念仏を〕託された御心に添うようになさって下さい。