御法語
浄土宗の意、善導の御釈には、往生の行に、大いに分かちて二つとす。一つには正行、二つには雑行なり。
初めに正行というは、これに数多の行あり。初めに読誦正行というは、これは無量寿経・観経・阿弥陀経等の三部経を読誦するなり。次に観察正行というは、これは彼の国の依正二報のありさまを観ずるなり。次に礼拝正行というは、これは阿弥陀仏を礼拝するなり。次に称名正行というは、南無阿弥陀仏と称うるなり。次に讃嘆供養正行というは、これは阿弥陀仏を讃嘆したてまつるなり。これを指して五種の正行と名づく。讃嘆と供養とを二つの行とするときは、六種の正行とも申すなり。
この正行につきて、総ねて二つとす。一つには、「一心に専ら弥陀の名号を称えたてまつりて、立居起臥、昼夜に忘るることなく、念々に捨てざる者を、これを正定の業と名づく。彼の仏の本願に順ずるが故に」と申して、念仏をもて、正しく定めたる往生の業と立て候。
「もし礼誦等に依るをば、名づけて助業とす」と申して、念仏の外の礼拝・読誦・讃嘆供養などをば、かの念仏を助くる業と申して候うなり。
さてこの正定業と助業とを除きて、その外のもろもろの業をば、みな雑行と名づく。
現代語訳
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浄土宗の教えについて、善導大師の解釈を見ると、〔極楽〕浄土に往生するための行には大きく分けて二つがあります。一つには正行、二つには雑行です。
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初めに正行というは、これに数多の行あり。初めに読誦正行というは、これは無量寿経・観経・阿弥陀経等の三部経を読誦するなり。次に観察正行というは、これは彼の国の依正二報のありさまを観ずるなり。次に礼拝正行というは、これは阿弥陀仏を礼拝するなり。次に称名正行というは、南無阿弥陀仏と称うるなり。次に讃嘆供養正行というは、これは阿弥陀仏を讃嘆したてまつるなり。これを指して五種の正行と名づく。讃嘆と供養とを二つの行とするときは、六種の正行とも申すなり。
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初めに、正行についていうと、これには数多くの行があります。第一に読誦正行というのは、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』という三部の経典を読誦することです。第二に観察正行というのは、極楽の国土と、そこにおられる阿弥陀仏や菩薩衆のありさまを想い画くことです。第三に礼拝正行というのは、阿弥陀仏を礼拝することです。第四に称名正行というのは、「南無阿弥陀仏」と称えることです。第五に讃嘆供養正行というのは、阿弥陀仏を誉め讃えることです。これらを指して五種の正行と名づけます。讃嘆と供養とを二つの行とするときは、六種の正行とも申します。
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この正行につきて、総ねて二つとす。一つには、「一心に専ら弥陀の名号を称えたてまつりて、立居起臥、昼夜に忘るることなく、念々に捨てざる者を、これを正定の業と名づく。彼の仏の本願に順ずるが故に」と申して、念仏をもて、正しく定めたる往生の業と立て候。
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これらの正行について〔善導大師〕は、まとめて二つとします。第一に、「一心にただひたすら阿弥陀仏の名号を称え、立ち居起き臥し、昼も夜も忘れることなく、一瞬たりともやめない、これを〈正定業〉と名づける。〔これは〕かの阿弥陀仏の本願の意に添うものだからである」といって、称名念仏を「まさしく定まった往生の行」と位置づけます。
※一心に専ら…順ずるが故に=善導『観経疏』「散善義」(『浄全』二・五八頁下)。前篇第二章参照。
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「もし礼誦等に依るをば、名づけて助業とす」と申して、念仏の外の礼拝・読誦・讃嘆供養などをば、かの念仏を助くる業と申して候うなり。
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〔第二には、〕「もし〔念仏以外の〕礼拝、読誦等によるならば、名づけて助業とする」といって、念仏以外の、礼拝・読誦・讃嘆供養などを、その念仏を助ける行と申します。
※もし…助業とす=典拠は前注に同じ。
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さてこの正定業と助業とを除きて、その外のもろもろの業をば、みな雑行と名づく。
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さて、この正定業と助業とを除いてその他の様々な行は、みな雑行と名づけます。