御法語
至誠心というは、大師釈して宣わく、「至というは真なり。誠というは実なり」と云えり。ただ真実心を至誠心と善導は仰せられたるなり。
真実というは、もろもろの虚仮の心のなきをいうなり。虚仮というは、貪瞋等の煩悩を起こして正念を失うを、虚仮心と釈するなり。
総べてもろもろの煩悩の起こることは、源、貪瞋を母として出生するなり。
貪というについて喜足小欲の貪あり、不喜足大欲の貪あり。いま浄土宗に制するところは、不喜足大欲の貪煩悩なり。まず行者、かようの道理を心得て念仏すべきなり。これが真実の念仏にてあるなり。喜足小欲の貪は、くるしからず。
瞋煩悩も、敬上慈下の心を破らずして道理を心得んほどなり。
痴煩悩というは、愚かなる心なり。この心を賢くなすべきなり。まず生死を厭い、浄土を欣いて、往生を大事と営みて、もろもろの家業を事とせざれば、痴煩悩なきなり。少々の痴は、往生の障りにはならず。
これほどに心得つれば、貪瞋等の虚仮の心は失せて、真実心は易く起るなり。これを浄土の菩提心というなり。
詮ずるところ、生死の報を軽しめ、念仏の一行を励むが故に、真実心とはいうなり。
現代語訳
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至誠心というは、大師釈して宣わく、「至というは真なり。誠というは実なり」と云えり。ただ真実心を至誠心と善導は仰せられたるなり。
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至誠心については、善導大師が解釈して、「〈至〉というのは〈真〉である。〈誠〉というのは〈実〉である」と言われています。真実心こそが至誠心である、と大師はおっしゃったのです。
※至というは…実なり=『観経疏』「散善義」(『浄全』二・五五頁下)。
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真実というは、もろもろの虚仮の心のなきをいうなり。虚仮というは、貪瞋等の煩悩を起こして正念を失うを、虚仮心と釈するなり。
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「真実」というのは、さまざまな嘘偽りの心がないことをいいます。「嘘偽り」というのは、貪りや憎しみなどの煩悩を起こして、正しい念いを失うことであり、それを「嘘偽りの心」と解釈するのです。
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総べてもろもろの煩悩の起こることは、源、貪瞋を母として出生するなり。
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およそ、どのような煩悩も、もともとは貪りと憎しみと〔愚痴と〕を母として生まれ出るのです。
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貪というについて喜足小欲の貪あり、不喜足大欲の貪あり。いま浄土宗に制するところは、不喜足大欲の貪煩悩なり。まず行者、かようの道理を心得て念仏すべきなり。これが真実の念仏にてあるなり。喜足小欲の貪は、くるしからず。
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さて、貪りということについては、つつましい貪りもあり、強欲な貪りもあります。いまこの浄土宗で禁じるのは、強欲な貪りの煩悩です。念仏者はまずこのような道理をわきまえて念仏すべきです。これが真実の念仏というものです。つつましければ貪りもさしさわりはありません。
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瞋煩悩も、敬上慈下の心を破らずして道理を心得んほどなり。
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憎しみの煩悩にしても、目上の人を敬い、目下の人をいたわる心を失わずに、道理をわきまえる程度です。
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痴煩悩というは、愚かなる心なり。この心を賢くなすべきなり。まず生死を厭い、浄土を欣いて、往生を大事と営みて、もろもろの家業を事とせざれば、痴煩悩なきなり。少々の痴は、往生の障りにはならず。
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愚痴の煩悩とは、愚かな心のことです。この心を賢くしなければなりません。まずこの迷いの境涯を厭い、浄土を欣って、往生こそが大事だと思いながら〔念仏に〕励み、さまざまな世間の家業のほうを大事だと思わないなら、愚痴の煩悩は無いに等しいのです。少々の愚かさは往生の妨げにはなりません。
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これほどに心得つれば、貪瞋等の虚仮の心は失せて、真実心は易く起るなり。これを浄土の菩提心というなり。
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この程度に理解しさえすれば、貪り、憎しみなどの「嘘偽りの心」は消え失せて、真実の心は容易に起こるのです。これを浄土宗の「菩提心」と言います。
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詮ずるところ、生死の報を軽しめ、念仏の一行を励むが故に、真実心とはいうなり。
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要するに、俗世間での報いを重視せず、念仏の一行に励むので、真実心と言うのです。
※生死の報を軽しめ=「この世での幸不幸や利害損得に振り回されず」の意。