御法語
初めには我が身のほどを信じ、後には仏の願を信ずるなり。
その故は、もし初めの信心を挙げずして後の信心を釈し給わば、もろもろの往生を願わん人、たとい本願の名号をば称うとも、自ら心に貪欲・瞋恚の煩悩をも起こし、身に十悪・破戒等の罪悪をも造りたる事あらば、妄りに自身を軽しめて、身のほどを顧みて、本願を疑い候わまし。「今この本願に、〈十声一声までに往生す〉というは、おぼろげの人にはあらじ」などぞ、覚え候わまし。
しかるを善導和尚、未来の衆生の、この疑いを起こさん事を鑑みて、この二つの信を挙げて、我等がいまだ煩悩をも断ぜず、罪業をも造る凡夫なれども、深く弥陀の本願を信じて念仏すれば、一声に至るまで、決定して往生するよしを釈し給えるこの釈の、殊に心に染みて、いみじく覚え候うなり。
現代語訳
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初めには我が身のほどを信じ、後には仏の願を信ずるなり。
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〔善導大師の深心の解釈についていえば、〕まず初めにわが身のほどを信じ、後に阿弥陀仏の本願を信じるのです。
※初めに…信ずるなり=善導『観経疏』「散善義」には、第一に「自分は罪悪生死の凡夫で常に迷いの境涯をさまよい、出離の縁がない」と深く信じ、第二に「阿弥陀仏は四十八願の力で衆生を往生させて下さる」と深く信じることが説かれている(『浄全』二・五六頁上)。
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その故は、もし初めの信心を挙げずして後の信心を釈し給わば、もろもろの往生を願わん人、たとい本願の名号をば称うとも、自ら心に貪欲・瞋恚の煩悩をも起こし、身に十悪・破戒等の罪悪をも造りたる事あらば、妄りに自身を軽しめて、身のほどを顧みて、本願を疑い候わまし。「今この本願に、〈十声一声までに往生す〉というは、おぼろげの人にはあらじ」などぞ、覚え候わまし。
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そのわけは、もし初めの信心を挙げることなしに、後の信心だけを解釈されたならば、往生を願うひとびとは、たとえ本願の念仏を称えても、自らの心に貪りや憎しみの煩悩をも起こし、身に十悪・破戒などの罪悪をも犯すことがあれば、むやみに自分を卑下して、身のほどを省みて、〔逆に〕本願を疑うことになるでありましょう。〔つまり〕「今この阿弥陀仏の本願の中に〈十声一声でさえ念仏すれば往生する〉とあるのは、並の人のことを指して言っているのではないだろう」などと思うかもしれないからです。
※などぞ=底本では「なぞと」。『勅伝』本文による。