法然上人のお言葉― 元祖大師御法語 ―

後篇
第十章

深心じんしん

深心とは、自分が悪業・煩悩の具わった凡夫であると信じ、その自分でも本願の念仏により救われると深く信じることである。

(勅伝第二十二巻)

御法語

はじめにはのほどをしんじ、のちにはほとけがんしんずるなり。

そのゆえは、もしはじめの信心しんじんげずしてのち信心しんじんしゃくたまわば、もろもろの往生おうじょうねがわんひと、たとい本願ほんがん名号みょうごうをばとなうとも、みずかこころ貪欲とんよく瞋恚しんに煩悩ぼんのうをもこし、十悪じゅうあく破戒等はかいとう罪悪ざいあくをもつくりたることあらば、みだりに自身じしんかろしめて、のほどをかえりみて、本願ほんがんうたがそうらわまし。「いまこの本願ほんがんに、〈十声一声じっしょういっしょうまでに往生おうじょうす〉というは、おぼろげのひとにはあらじ」などぞ、おぼそうらわまし。

しかるを善導ぜんどう和尚かしょう未来みらい衆生しゅじょうの、このうたがいをこさんことかがみて、このふたつのしんげて、我等われらがいまだ煩悩ぼんのうをもだんぜず、罪業ざいごうをもつく凡夫ぼんぶなれども、ふか弥陀みだ本願ほんがんしんじて念仏ねんぶつすれば、一声いっしょういたるまで、決定けつじょうして往生おうじょうするよしをしゃくたまえるこのしゃくの、ことこころみて、いみじくおぼそうろうなり。

現代語訳

はじめにはのほどをしんじ、のちにはほとけがんしんずるなり。

〔善導大師の深心の解釈についていえば、〕まず初めにわが身のほどを信じ、後に阿弥陀仏の本願を信じるのです。

※初めに…信ずるなり=善導『観経疏』「散善義」には、第一に「自分は罪悪生死の凡夫で常に迷いの境涯をさまよい、出離の縁がない」と深く信じ、第二に「阿弥陀仏は四十八願の力で衆生を往生させて下さる」と深く信じることが説かれている(『浄全』二・五六頁上)。

そのゆえは、もしはじめの信心しんじんげずしてのち信心しんじんしゃくたまわば、もろもろの往生おうじょうねがわんひと、たとい本願ほんがん名号みょうごうをばとなうとも、みずかこころ貪欲とんよく瞋恚しんに煩悩ぼんのうをもこし、十悪じゅうあく破戒等はかいとう罪悪ざいあくをもつくりたることあらば、みだりに自身じしんかろしめて、のほどをかえりみて、本願ほんがんうたがそうらわまし。「いまこの本願ほんがんに、〈十声一声じっしょういっしょうまでに往生おうじょうす〉というは、おぼろげのひとにはあらじ」などぞ、おぼそうらわまし。

そのわけは、もし初めの信心を挙げることなしに、後の信心だけを解釈されたならば、往生を願うひとびとは、たとえ本願の念仏を称えても、自らの心に貪りや憎しみの煩悩をも起こし、身に十悪・破戒などの罪悪をも犯すことがあれば、むやみに自分を卑下して、身のほどを省みて、〔逆に〕本願を疑うことになるでありましょう。〔つまり〕「今この阿弥陀仏の本願の中に〈十声一声でさえ念仏すれば往生する〉とあるのは、並の人のことを指して言っているのではないだろう」などと思うかもしれないからです。

※などぞ=底本では「なぞと」。『勅伝』本文による。

しかるを善導ぜんどう和尚かしょう未来みらい衆生しゅじょうの、このうたがいをこさんことかがみて、このふたつのしんげて、我等われらがいまだ煩悩ぼんのうをもだんぜず、罪業ざいごうをもつく凡夫ぼんぶなれども、ふか弥陀みだ本願ほんがんしんじて念仏ねんぶつすれば、一声いっしょういたるまで、決定けつじょうして往生おうじょうするよしをしゃくたまえるこのしゃくの、ことこころみて、いみじくおぼそうろうなり。

ところが善導和尚は、将来の人々がこのような疑いを起こすであろうことを見通して、この二つの信心を挙げて、「私たちはいまだに煩悩をも断たず、罪業をも犯す凡夫ではあるけれども、深く阿弥陀仏の本願を信じて念仏すれば、一声の念仏によってさえ必ず往生する」という旨を解釈されました。この解釈は、とりわけ心に響いて貴く感じるのであります。