御法語
問う。念仏せんには、必ず念珠を持たずとも苦しかるまじく候うか。
答う。必ず念珠を持つべきなり。世間の、歌を歌い、舞を舞うすらその拍子に随うなり。念珠を博士にて舌と手とを動かすなり。
但し、無明を断ぜざらん者は、妄念起こるべし。世間の客と主とのごとし。念珠を手に取る時は、「妄念の数を取らん」とは約束せず。「念仏の数取らん」とて、念仏の主を据えつる上は、念仏は主、妄念は客なり。
さればとて、心の妄念を許されたるは過分の恩なり。それにあまっさえ、口に様々の雑言をして念珠を繰り越しなどする事、ゆゆしき僻事なり。
現代語訳
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問う。念仏せんには、必ず念珠を持たずとも苦しかるまじく候うか。
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問い。念仏するには必ずしも数珠を持たなくても、差しつかえないでしょうか。
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答う。必ず念珠を持つべきなり。世間の、歌を歌い、舞を舞うすらその拍子に随うなり。念珠を博士にて舌と手とを動かすなり。
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答え。必ず数珠を持つべきです。世間で、歌を歌い、舞を舞う時でさえその拍子に従います。〔まして念仏するには〕数珠をたよりにして舌と手とを動かす〔べきな〕のです。
※博士=伝統的な音符(下図参照)。転じて「基準」の意。
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但し、無明を断ぜざらん者は、妄念起こるべし。世間の客と主とのごとし。念珠を手に取る時は、「妄念の数を取らん」とは約束せず。「念仏の数取らん」とて、念仏の主を据えつる上は、念仏は主、妄念は客なり。
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ただし、無知の煩悩を断っていない者には、迷いの心が起こるに違いありません。〔迷いの心と念仏との関係は、〕世間でいう客人と主人の関係のようなものです。数珠を繰るときは、「迷いの心の数を数えよう」と誓いはしません。「念仏の数を数えよう」と、念仏を主人と決めた以上は、念仏が主人であり、迷いの心は客人に過ぎません。
※無明を断ぜざらん者=大多数の人間、すなわち凡夫を指す。
※客と主=主は中心的なもの、客は従属的なもの。 -
さればとて、心の妄念を許されたるは過分の恩なり。それにあまっさえ、口に様々の雑言をして念珠を繰り越しなどする事、ゆゆしき僻事なり。
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とはいえ、心の迷いを許されていることは〔阿弥陀仏からの〕過分の恩であります。それなのに、あろうことか様々な悪口を言いながら数珠を繰るなどは大変な過ちであります。
※心の妄念を許されたるは=煩悩を具えた凡夫でも阿弥陀仏の本願の力で往生が叶うのは。
※過分の恩=通常では考えられない恩義。
※雑言=悪口。
(総本山知恩院蔵版『聲明』より)