法然上人のお言葉― 元祖大師御法語 ―

後篇
第十七章

百万遍ひゃくまんべん

百万遍念仏は七日をめどに称えるべきであるが、称えなくても往生できないわけではない。

(勅伝第二十三巻)

御法語

百万遍ひゃくまんべんこと

ほとけがんにてはそうらわねども、しょう阿弥陀あみだきょうに、「もし一日いちにちもし二日ににち乃至ないし七日しちにち念仏ねんぶつもうひと極楽ごくらくしょうずる」とかれてそうらえば、七日しちにち念仏申ねんぶつもうすべきにてそうろう

その七日しちにちのほどのかずは、百万遍ひゃくまんべんあたそうろうよし、人師釈にんじしゃくしてそうらえば、百万遍ひゃくまんべんは、七日なぬかもうすべきにてそうらえども、そうらわざらんひとは、八日九日ようかここのかなどにももうされそうらえかし。

さればとて、百万遍ひゃくまんべんもうさざらんひとの、まるまじきにてはそうらわず。一念十念いちねんじゅうねんにてもまれそうろうなり。一念十念いちねんじゅうねんにてもまれそうろうほどの念仏ねんぶつおもそうろううれしさに、百万遍ひゃくまんべん功徳くどくかさぬるにてそうろうなり。

現代語訳

百万遍ひゃくまんべんこと

百万遍について。

ほとけがんにてはそうらわねども、しょう阿弥陀あみだきょうに、「もし一日いちにちもし二日ににち乃至ないし七日しちにち念仏ねんぶつもうひと極楽ごくらくしょうずる」とかれてそうらえば、七日しちにち念仏申ねんぶつもうすべきにてそうろう

阿弥陀仏の本願にはありませんが、『阿弥陀経』に、「もしくは一日、もしくは二日、あるいは七日まで、念仏を称える人は極楽に生まれる」と説かれていますので、七日間念仏を称えるべきです。

※仏の願=四十八願。『無量寿経』巻上(『浄全』一・六~一一頁)。
※若しは…生ずる=『阿弥陀経』(『浄全』一・五四頁)。

その七日しちにちのほどのかずは、百万遍ひゃくまんべんあたそうろうよし、人師釈にんじしゃくしてそうらえば、百万遍ひゃくまんべんは、七日なぬかもうすべきにてそうらえども、そうらわざらんひとは、八日九日ようかここのかなどにももうされそうらえかし。

その七日ほどの〔念仏の〕数が百万遍に相当すると、ある高僧は解釈しておられます。ですから、百万遍は七日で称えるべきですが、それが出来ない人は、八日や九日などでもお称えになって下さい。

※人師=権威ある仏教者。ここでは道綽(五六二ー六四五)。道綽が『阿弥陀経』にもとづいて百万遍念仏を主唱したことは、迦才の『浄土論』下(『浄全』六・六六八頁下)にみえる。

さればとて、百万遍ひゃくまんべんもうさざらんひとの、まるまじきにてはそうらわず。一念十念いちねんじゅうねんにてもまれそうろうなり。一念十念いちねんじゅうねんにてもまれそうろうほどの念仏ねんぶつおもそうろううれしさに、百万遍ひゃくまんべん功徳くどくかさぬるにてそうろうなり。

だからといって、百万遍の念仏を称えない人は往生できない、というわけではありません。一念や十念でも生まれるのです。一念や十念でも生まれるほどの念仏だと思ううれしさに、〔おのずと〕百万遍念仏の功徳を重ねることになるのです。