御法語
「念仏して往生するに不足なし」と云いて、悪業をも憚らず、行ずべき慈悲をも行ぜず、念仏をも励まさざらん事は、仏教の掟に相違するなり。
譬えば、父母の慈悲は、善き子をも悪しき子をも育めども、善き子をば悦び、悪しき子をば歎くがごとし。仏は一切衆生を哀れみて、善きをも悪しきをも渡し給えども、善人を見ては悦び、悪人を見ては悲しみ給えるなり。
善き地に善き種を蒔かんがごとし。かまえて善人にして、しかも念仏を修すべし。これを、真実に仏教に随う者というなり。
現代語訳
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「念仏して往生するに不足なし」と云いて、悪業をも憚らず、行ずべき慈悲をも行ぜず、念仏をも励まさざらん事は、仏教の掟に相違するなり。
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「念仏して往生できるのだからそれで充分だ」などと言って、悪業をも憚ることなく、もつべき慈悲の心をももたず、念仏にも励まないとすれば、仏教の掟に反しています。
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譬えば、父母の慈悲は、善き子をも悪しき子をも育めども、善き子をば悦び、悪しき子をば歎くがごとし。仏は一切衆生を哀れみて、善きをも悪しきをも渡し給えども、善人を見ては悦び、悪人を見ては悲しみ給えるなり。
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たとえば父母の慈愛は、良い子も悪い子も慈しみますが、良い子については喜び、悪い子については歎くようなものです。仏はあらゆる衆生を哀れんで善人も悪人もお救いになりますが、善人を見ては喜び、悪人を見ては悲しまれるのです。
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善き地に善き種を蒔かんがごとし。かまえて善人にして、しかも念仏を修すべし。これを、真実に仏教に随う者というなり。
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良い畑に良い種を蒔くようなものです。是非とも善人となり、その上で念仏を修めなさい。これを、真実に仏の教えに従う者というのであります。
※真実に仏教に随う者=善導『観経疏』「散善義」(『浄全』二・五六頁下)参照。