法然上人のお言葉― 元祖大師御法語 ―

後篇
第二十一章

随順仏教ずいじゅんぶっきょう

念仏で往生できれば充分だといって、教えに背くことを行い、念仏に励まないのは誤りである。

(念仏往生義)

御法語

念仏ねんぶつして往生おうじょうするに不足ふそくなし」といて、悪業あくごうをもはばからず、ぎょうずべき慈悲じひをもぎょうぜず、念仏ねんぶつをもはげまさざらんことは、仏教ぶっきょうおきて相違そういするなり。

たとえば、父母ぶも慈悲じひは、をもしきをもはぐくめども、をばよろこび、しきをばなげくがごとし。ほとけ一切衆生いっさいしゅじょうあわれみて、きをもしきをもわたたまえども、善人ぜんにんてはよろこび、悪人あくにんてはかなしみたまえるなり。

たねかんがごとし。かまえて善人ぜんにんにして、しかも念仏ねんぶつしゅすべし。これを、真実しんじつ仏教ぶっきょうしたがものというなり。

現代語訳

念仏ねんぶつして往生おうじょうするに不足ふそくなし」といて、悪業あくごうをもはばからず、ぎょうずべき慈悲じひをもぎょうぜず、念仏ねんぶつをもはげまさざらんことは、仏教ぶっきょうおきて相違そういするなり。

「念仏して往生できるのだからそれで充分だ」などと言って、悪業をもはばかることなく、もつべき慈悲の心をももたず、念仏にも励まないとすれば、仏教のおきてに反しています。

たとえば、父母ぶも慈悲じひは、をもしきをもはぐくめども、をばよろこび、しきをばなげくがごとし。ほとけ一切衆生いっさいしゅじょうあわれみて、きをもしきをもわたたまえども、善人ぜんにんてはよろこび、悪人あくにんてはかなしみたまえるなり。

たとえば父母の慈愛は、良い子も悪い子もいつくしみますが、良い子については喜び、悪い子についてはなげくようなものです。仏はあらゆる衆生をあわれんで善人も悪人もお救いになりますが、善人を見ては喜び、悪人を見ては悲しまれるのです。

たねかんがごとし。かまえて善人ぜんにんにして、しかも念仏ねんぶつしゅすべし。これを、真実しんじつ仏教ぶっきょうしたがものというなり。

良い畑に良い種をくようなものです。是非とも善人となり、その上で念仏を修めなさい。これを、真実に仏の教えに従う者というのであります。

※真実に仏教に随う者=善導『観経疏』「散善義」(『浄全』二・五六頁下)参照。