法然上人のお言葉― 元祖大師御法語 ―

後篇
第二十九章

一蓮托生いちれんたくしょう

念仏者同士は別離を嘆く必要はない。いずれ極楽で再会できる。

十六門記

御法語

会者定離えしゃじょうりつねならい、いまはじめたるにあらず。なんふかなげかんや。宿縁空しゅくえんむなしからずば同一蓮どういちれんせん。浄土じょうど再会さいかいはなはちかきにあり。いまわかれはしばらくのかなしみ、はるゆめのごとし。信謗しんぼうともにえんとして、さきまれてのちみちびかん。引摂縁いんじょうえんはこれ浄土じょうどたのしみなり。

それ現生げんしょうすらなおもてうとからず。どう名号みょうごうとなえ、同一光明どういちこうみょううちにありて、同聖衆どうしょうじゅ護念ごねんこうぶ同法どうほうもっとしたし。おろかにうとしとおぼすべからず。

南無阿弥陀仏なむあみだぶつとなたまえば、住所じゅうしょへだつといえども、源空げんくうしたしとす。源空げんくう南無阿弥陀仏なむあみだぶつとなえたてまつるがゆえなり。念仏ねんぶつこととせざるひとは、かたならべ、ひざむといえども源空げんくううとかるべし。三業さんごう、みなことなるがゆえなり。

現代語訳

会者定離えしゃじょうりつねならい、いまはじめたるにあらず。なんふかなげかんや。宿縁空しゅくえんむなしからずば同一蓮どういちれんせん。浄土じょうど再会さいかいはなはちかきにあり。いまわかれはしばらくのかなしみ、はるゆめのごとし。信謗しんぼうともにえんとして、さきまれてのちみちびかん。引摂縁いんじょうえんはこれ浄土じょうどたのしみなり。

会う者が必ず別れるということは世の定めであって、今に始まったことではありません。どうして深く嘆くことがあるでしょうか。過去の因縁が確かなものであるならば、〔極楽に往生して〕同じ蓮のうてなに座ることができるでしょう。浄土での再会は間もなくのことです。今の別れは、しばしの悲しみに過ぎず、春の夜のはかない夢のようなものです。信じることも謗ることも共に縁として、先立つ者が残された者を導きましょう。縁ある人を迎え取ることは浄土での楽しみです。

※今の別れ=法然上人が四国に流されることを言う。

それ現生げんしょうすらなおもてうとからず。どう名号みょうごうとなえ、同一光明どういちこうみょううちにありて、同聖衆どうしょうじゅ護念ごねんこうぶ同法どうほうもっとしたし。おろかにうとしとおぼすべからず。

そもそもこの世にあってさえ浅い関係ではありません。すなわち、同じ阿弥陀仏の名号を称え、同じ阿弥陀仏の光明の中にあって、同じ〔極楽の〕聖衆のお守りを受け、同じ教えを信じる者同士は、この上なく親しい間柄なのです。決して縁が薄いなどと誤解されてはなりません。

※愚かに=思慮浅く。

南無阿弥陀仏なむあみだぶつとなたまえば、住所じゅうしょへだつといえども、源空げんくうしたしとす。源空げんくう南無阿弥陀仏なむあみだぶつとなえたてまつるがゆえなり。念仏ねんぶつこととせざるひとは、かたならべ、ひざむといえども源空げんくううとかるべし。三業さんごう、みなことなるがゆえなり。

南無阿弥陀仏とお称えになれば、住む所は離れていても、私とは親しいのです。私も南無阿弥陀仏とお称えするからです。念仏に専念しない人は、たとえ肩を並べ、膝を交えていても、私との縁は浅いのです。身口意の三業すべてが〔私とは〕かけはなれているからです。