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法然上人の歩まれた道⑨

「琴線にふれる文」

 あちらとこちら、その離れている一方から出た音がもう一方に伝わり、響き合う現象を共鳴と言います。この言葉は誰かの考えや行動に共感する場合にも使います。法然上人はすべての人がもれなく安穏の境地に至ることのできる道を、膨大な仏典の中に探し求め、また諸宗の学匠に尋ね歩いた末に、ついに琴線にふれ共鳴する教えに出会うのです。それは法然上人より五〇〇年ほど前の唐に出た、善導大師の『観経疏』(観無量寿経の講説書)に残されていたのです。

 私たちがお経を読む時、

「無上甚深微妙の法は百千万劫にも遭い難し。我れ今、見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん」
(みほとけの甚だ深い妙なる教えは、どれほど時間を費やしても出会うことが難しい。私は今、その教えに触れ、掌中にすることができた。その上は、みほとけが説かれた教えの真実の意味をかみしめ味わいたい)

という開経偈を唱えます。法然上人もそのような出会いの感動に打たれ、そのみ教えを多くの人々と分かち合いたいという願いを発されるのです。長い長い苦節の末に、求めに求めていた教えに出会えた法然上人の感慨は、二祖聖光上人によって次のように伝えられています。

「しかる間、歎き歎きて経蔵に入り、悲しみ悲しみて聖教に向かい、みずからこれを披いてこれを見るに、善導和尚の観経の疏に〈一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に〉といえる文を見うるの後、我らがごとき無智の身は、ひとえにこの文を仰ぎ、専らこの理を憑み、念々に捨てざるの称名を修して、決定往生の業因に備うれば、ただ善導の遺教を信ずるのみにあらず、また厚く弥陀の弘願に順ず。〈彼の仏の願に順ずるが故に〉の文、神に染み、心に留むのみ」

 つまり、深遠な仏法を会得する力や、厳しい修行に打ち込む力がなくても、すべての人が安穏の世界に到れる道はないものかと、来る日も来る日も歎き歎き経蔵に入り、悲しみ悲しみ仏典をひも解いていたところ、善導大師の『観経疏』に説かれる〈一心に専ら阿弥陀仏の名号を称え、立ち居起き臥しの姿勢や、時間の長短には関係なく、片時もお念仏を捨てない、それを浄土に往生する正しき業という。なぜなら、それが阿弥陀仏の願いに叶う行いだからである〉という文に出会ってからは、私たちのような無智の者は、ただひたすらその教えにすがり、片時も忘れずにお念仏をすれば、必ず浄土に往生できると努めていたところ、善導大師の教えを信じるだけでなく、厚く阿弥陀仏の願いに添うことができた。善導大師の〈かの仏の願いに順ずるが故に〉の文が、心の底に染みこみ、留まるようになった、と言うのです。

 善導大師は中国では阿弥陀仏の化身と仰がれていました。法然上人は主著『選択集』の中で、善導大師の『観経疏』を「西方の指南、行者の目足」、つまり往生浄土を願う人の道しるべ、目足となる書と言われています。法然上人の琴線にふれた先ほどの文は「浄土開宗の文」と呼ばれています。宗(むね)とは中心となる要のことですから、この場合の開宗(宗を開く)とは、誰もが称名念仏によって苦しみ悩みの世界を離れ、安穏の世界に到ることができるという浄土門の要が、法然上人の体験を通して開示されたことを指します。それは上人が十八歳で黒谷での修行を始めてから、実に二十五年を経た承安五年(一一七五)の春、四十三歳の時でした。やがて法然上人の教えに共鳴する人たちが集まり、そこに浄土宗教団が形成されて行くのです。

知恩院浄土宗学研究所主任 藤堂 俊英

対座する法然上人と聖光上人(『法然上人行状絵図』巻四十六)

第10回「仏道は善き友との共生」