地域に開かれたお寺の再建へ

浄土寺住職 中澤秀宣さん(左)と
副住職 中澤良宣さん(右)

津波の爪痕が今もなお残る浄土寺の境内
仙台駅から車で海岸に向かうこと数キロ、国道を超えると景色が一変する。東日本大震災からもうすぐ5年経つが、荒れ果てた土地に建物の基礎だけが残る仙台市若林区荒浜地区。津波で甚大な被害を受け、「災害危険区域」に指定されている。この場所に人が戻ってくることはもうない。
「自然に囲まれたのどかな集落が、一瞬にして変わり果ててしまった。人が住まないということは、やっぱり寂しい」と話すのは、この荒浜地区にある宮城教区第三組浄土寺住職の中澤秀宣さん(66)。あの日、中澤さんは地域の会合を終え、車でお寺へ帰る途中、道路が大きく波打つほどの激しい揺れに襲われた。「庫裡にいた家族を呼び、急いで陸地に向かって車を走らせた。海岸の方を振り返ると、カタカタと松並木が揺れ始め、真っ黒い波が押し寄せてくるのが見えた。逃げることで精一杯だった」と当時の緊迫した様子を振り返る。10メートル近い津波によって、海岸から800メートルほどの位置にあった浄土寺はすべて流された。今はプレハブの仮本堂と慰霊碑が立っているだけである。
荒浜地区で亡くなった186人のうち135人が浄土寺の檀信徒だった。震災後の数カ月間、身内の家で過ごし、遺体が見つかるたびに葬儀場を回って犠牲者のご供養をする日々が続いた。何から手をつければいいのか分からない状態の中でもお墓の復旧を望む声は多かった。現在、700基ほどあった墓石の8割近くが修復されている。移転に伴い、離檀する人もいるが少数だという。
昨年10月、震災前にお寺があった場所から2キロほど内陸寄りの農地で地鎮式が行われた。本堂、書院棟、庫裡棟の再建工事が始まり、復興に向けてようやく大きな一歩を踏み出した。中澤さんは「かつてのように念仏講や吉水講を開き、広い駐車場では盆踊り大会などのイベントを行いたい。地域の復興のために、宗派関係なくみんなが交流できる場所にしたい」と2年後の完成を心待ちにしている。12月6日には仙台市内に地下鉄が開通。車で数分の荒井駅周辺には新築の家が立ち並び、賑わいを見せ始めている。400年近く続いてきた浄土寺と荒浜地区の住民とのコミュニティが新しい形で生まれ変わろうとしている。「心の痛手はたくさんあったが、過去のことを考えてもしょうがない。前に進む他はない」──その力強い言葉には様々な思いが込められていた。
人のつながりが復興の力に

クリスマス会に参加していた若松会の皆さん。
それぞれが復興に向け少しずつ歩み始めている
私が取材に訪れた日、近くの沖野市民センターで若松会主催のクリスマス会が行われていた。若松会はアパート型の「みなし仮設」で生活していた浄土寺の檀信徒が立ち上げた団体である。みなし仮設は、プレハブの仮設住宅と比べ情報交換が難しく、支援物資が行き届きにくい状況にあったことから、若松会の発足に至った。会員は100名ほどで、現在は一軒家を借り、定期的にお茶のみサロンやイベントを開いている。
ダンスや歌のステージ、プレゼント交換などで楽しそうな笑顔を見せる参加者たち。「ここに来ると落ち着くし、居心地がいい」と独特の方言で話す女性。ずっと荒浜地区を愛し育ってきた人が多い。余儀なくされる移転に不安が募る中、お互い励まし合い支え合ってきた。若松会会長で浄土寺副住職の中澤良宣さん(36)は、「同じ被災者ではあるが、僧侶として周りから不安や悩みを聞くことも多い。これからも若松会のように人が集える場を作っていきたいし、震災でバラバラになった檀家さんにもっと歩み寄ることができれば」と話す。
被災地に響くお念仏の声
復興は地域によって格差があり、まだまだ長い年月を要する。宮城教区浄土宗青年会では、2014年6月から、宮城県内の仙台市、石巻市、山元町、岩沼市、気仙沼市の5ヶ所、7寺院で犠牲者の鎮魂と復興を願い、念仏行脚を行った。総距離は56キロにも及ぶ。会長で災害復興宮城事務所の所長も務める常念寺住職の石山誠治さん(45)が中心となり、「地元から震災を風化させない」との思いで始まった。「これからも出来ることを出来る範囲内で継続していきたい」と話す。被災者一人ひとりが心の平穏を取り戻し、真の復興となるまで、私たちは被災地の今を知り、寄り添い続けたい。
(取材・文 国松真理)