懐かしい風景をもう一度

復旧した照徳寺墓地。多くの花が手向けられていた

福田町南仮設住宅にて。
お正月らしくみんなでお餅を食べ、和やかな雰囲気
「境内は子どもの遊び場だったんだけどな。五月になったらいたるところに鯉のぼりがあがって、にぎやかな村だった」
東日本大震災以前の風景を懐かしく想い出しながら、仙台市宮城野区岡田にある照徳寺住職の中澤康博さん(70)はとつとつと言葉をつむいだ。
海岸から照徳寺まで、わずか千三百メートル。津波は、山門、外壁、庫裏、会館、鐘楼を容赦なく押し流していった。本堂も2メートル以上浸水し、境内には五百基の墓があったが無事だったのはわずか10基だけだった。
3年近い歳月が経ち、本堂では法事をつとめられるまでに修復され、墓地もほぼ復旧した。このあたりでは正月明けにお墓参りを行う習慣がある。私が訪ねた1月16日にはかつて山門があっただろうところに花屋が出店を構え、檀家さんのお参りが絶えなかった。お墓にお花を供えて、先祖とつながる場として、お寺はよみがえりつつある。しかし、住職が毎日檀家さんを迎え続ける仮設の庫裏は、ガレージを改装しただけの簡素なもの。厳しい寒さは、きっと体にこたえるだろう。
照徳寺は災害危険区域には指定されなかったが、周囲にあった百四十戸ほどの集落のうちで、震災後に戻ってきたのは三分の一程度。残る人々は福田町南仮設住宅と港南仮設住宅に分かれて住んでいる。副住職の中澤宏顕さん(37)は、自らも仮設住宅に暮らしながら、「いままでずっと支えてもらってきたから」と、檀家さんのもとを繰り返し訪ねては必要なものを届けている。
中澤宏顕さんは、「災害から復興するためにここに生きているんだと思うし、何十年かかっても復興させたい」と語る。6歳、4歳、1歳の子どもを抱え、未来への不安ももちろんあるが、「自分の背中をきっと子どもたちは見ていてくれる」と信じている。
その背中に寄り添い続けてきたのは、東北ブロック浄土宗青年会(理事長 西嵜覚信)と山形教区浄土宗青年会(会長 瀧口宗紀)だ。西嵜さんたちは、平成24年7月以来、毎月1回、一緒に仮設住宅を訪ねては炊き出しを行ってきた。今年1月で炊き出しの活動は休止させるが、「照徳寺の檀家さんとせっかくつながることができたので、今後はお寺で『祭り』を行いたい」と意気込みを語ってくれた。四季折々の「祭り」とともに、境内に子どもたちの賑やかな声が再び響く日は、きっと遠くない。
お念仏の祈りと、石巻の復興

ユンボに乗って復興の歩みを語る樋口副住職
「世間的には3年も経てば、という想いがあるでしょう。でも、そういう視線が余計に孤独にさせるんです」
石巻市門脇町の西光寺副住職の樋口伸生さん(51)は、自らユンボを操縦して境内のがれき撤去を行う一方で、被災された方々の心のケアの必要性を訴え、平成23年12月から毎月11日に「蓮の会」を開いてきた。
きっかけは、その前月に行われた「みやぎ心のケアセンター」開設記念式典で、パネリストの一人として登壇したことだった。「お念仏によって亡き人は阿弥陀さまのもとに迎えとってもらえます。私たちも命を終えたときにまた再会できるんです」と話したとき、会場にいた人たちはあの世に希望を持った。浄土宗の教えがいま求められていることをひしひしと感じた。
「蓮の会」では、勤行、別時念仏、法話を一時間ほどかけて行ったあと、遺族同士が輪になって数時間にわたってやりきれない悲しみや怒りを素直に語り合う。三千五百人以上の死者を出した石巻市。西光寺の檀家だけでも百八十人の命が失われた。遺族がもっとも多く住む町だからこそ、「いまだ忘れられない故人を想って祈る場所、悲しみを素直に口に出したり、愚痴を言い合ったりする場所が求められています」という。
「すべてを失った人は癒されていくのに時間がかかります。でも、悲しみが多かったから当然のことなんです。少しずつ立ち直っていく過程で、どんな心境を迎えたときにもそばに居続け、祈りの手伝いをさせてもらえたら」と、樋口さんは石巻市の復興を願い、覚悟を語った。
ふと西光寺の玄関の扉が開いた。振り返ってみると、数十体の木彫りのお地蔵さんを携えた一人のお坊さんの姿があった。大阪からなんども足を運び、そのたびに仏像やお地蔵さんを届けているそうだ。
人びとの願いはたぶんこうやってつながっていく。
取材で滞在していたあいだ、「つながり」という言葉を何度聞いたことだろう。
「同じ想いがあるかぎり、人と人はつながることができる」
震災から3年。無数の尊いつながりの向こう側に、復興の芽は少しずつ萌(きざ)してきている。
(取材・文 池口龍法)