華道家元池坊 次期家元 池坊専好

華道家元池坊 次期家元
池坊専好
私は日頃京都の町なかにあります六角堂で花をいけております。昔、その辺りに池があり、池の畔には僧侶が住まいする坊があり、その坊の中で花を立てるのが非常にうまい僧侶が出てきて、そこから池坊という名前がついたわけです。立てた花は仏前であり、仏前の花をより美しく立てたのが〈いけばな〉の始まり、という風に知っていただければよいと思います。
その池坊という名前が歴史に刻まれてから550年の節目の年が2012年でした。〈いけばな〉そのものは、仏さまに花を供える仏前供花から始まっていますので非常に長い歴史を持っていますが、池坊が花を立てて大変な評判を得たのが1462年のことだったのです。
『仙伝抄』、『花王以来の花伝書』といった古い文書を見ますと、昔の人は一木一草を立てるたびに、その枝が例えば慈悲の枝であるとか、智慧の枝であるとか、一枝一枝に諸仏が列座しているとか、あるいはこの枝は主君の安全を祈って立てる枝であるとみなし、美しさというよりも自分の思いや願いを花に託していけていたということがわかります。
仏前供花で花をいけていたころ、人々は自然の中で草木の営みを見ながら、見えない神仏を感じて生きていたと思います。そして、自分の思い、願いを託して花をいけようとした。そこには生きとし生ける草木に心を寄せるやさしい眼差しがあったことを忘れてはなりません。
昔から「花は足でいけよ」といわれてきました。今は花屋さんに行けば季節の美しい花を得ることができますが、昔は、野や山に足を運ばなければなりませんでした。しかし、それにより、その草木がどんな状態で育ち、咲いていたかがわかり、植物が本来育っている姿がわかります。梅は梅らしく、桃は桃らしく個性をいかしていける。この個性のことを出生(しゅっしょう)といいます。出生を尊重していける、というところに私は〈いけばな〉における花と人との関係性が見えるように思います。人が自由自在に草木を操って好きな形にいけるのではなく、一歩引いて出生を大切にし、そのよさを引き出していくという精神なのです。
「枯れた花にも花がある」という言葉があります。1530年ごろ、池坊専応(せんのう)が『専応口伝(くでん)』の中で著した言葉です。専応という人は、〈いけばな〉がどういうものかを定義付けた方です。専応以前の〈いけばな〉は、中国から渡来した高価な器に美しい花を挿し、互いにその良さを競い合うという傾向にあったのですが、彼はそれを否定し、壊れたような瓶にも風情があり、そこにありとあらゆる植物の姿をいかすことが大切だと述べたわけです。生きているものすべてに対し、生から死までの命の流れを読みとり、枯れた花にも輝きがあるという境地に達していたのではないでしょうか。僧侶として仏さまを身近に感じ、そして、草木に思いを託していけている人を間近に見てきたからこそ感じとることができた境地ではないかと思っています。
池坊には専好という方がこれまで3人います。初代専好は、安土桃山期に活躍し、大きな作品をたくさん遺しています。その時代、豊臣秀吉がよく武将の館を訪ねており、専好はたびたび花をいけています。文禄3年(1594)、前田利家の家にやって来た折には、双幅対の大きな掛け軸の前に松を使った大きな横長の作品を立てています。掛け軸には猿が20匹ほど描かれ、大自然の松林の中で猿が飛んだり跳ねたりしているような情景に秀吉は、「いい作品だ」という言葉を遺したとされます。猿と言われていた秀吉が松の頂上にのぼっていくことを示した、という説に対し権力を持ち過ぎた秀吉に対し作品を通じて諌(いさ)めようとした、との説があります。意図はわかりませんが、刀で力を誇示していた時代に、刀を使わずに文化で、花の力で人の心を変えていこう、時代に向かいあっていこう、とする専好の姿を垣間見る思いがします。
そんな初代の専好ですが、来年映画になります。題名は『花(はな)戦(いく)さ』(東映)といいます。戦さといっても刀を振り回すわけではなく、殺伐とした時代に花を修練し、花によって人の心を穏やかにしていく、そういった世界観を描いた作品です。ぜひご覧になって下さい。
〈いけばな〉は、今日まで長い歴史を紡いできました。しかし、形のあるものではなく、時間が経てば枯れてしまいます。でも、私は形を持たないからこそ逆に、その心を伝えて残そうという努力があったから長い間続いてきたと思っています。
私自身、花をいけることも、また、いかすこともまだまだ模索中です。みなさま、また何かの折、花を見られた折にきょうの話を思い出して頂けたら幸いに思います。
平成28年7月27日に法然上人御堂で行なわれた「第50回暁天講座」における同題名の講演から要旨を採録しました。『知恩』誌10月号にさらに詳しく掲載しています。
プロフィール
池坊 専好(いけのぼう せんこう)
小野妹子を道祖として仰ぎ、室町時代にその理念を確立させた華道家元池坊の次期家元。2015年に専好襲名。京都にある紫雲山頂法寺(六角堂)の副住職。いのちをいかすという池坊いけばなの精神に基づく多彩な活動を展開。2012年より諸災害の慰霊復興や人々の幸せや平和への願いを目的に、西国三十三所を巡礼し献華を行った。アイスランド共和国名誉領事。