総本山知恩院 布教師会副会長 安部隆瑞(あべ りゅうずい)
広がる支援の輪

総本山知恩院 布教師会副会長
安部隆瑞
ここにご紹介する一句は、今から二十年以上も前に、故き松原泰道老師の一冊を通して知り得た秀句であります。松原師の著書には、以前に日本のある航空会社が、世界各国より俳句の募集をおこなった際に、いくつもの入選作品の中の一つで、本人の氏名は失念しているが、日本のある少年の作品と説明がなされてありました。私は以来、この時節、お盆の心の中心に安置して愛楽する一句となっています。航空旅客の「空席待ち」の言葉が去来してくる妙味もこれまた乙な旨味です。
この作者の少年の家庭を察するに、おじいちゃん、おばあちゃんのいずれかがこの一年の内にお浄土へ旅立たれ、ちょうどこのお盆は初盆を迎えると私は窺(うかが)うのです。今はすでに初盆のお精霊迎えもすみ、あるいは和尚さんの棚経もいただいて、家族中が普段通りの夕食を食べている今が浮かびます。おじいちゃん、あるいはおばあちゃんが元気であったかつての頃は、家族の食卓はいつも満席で、皆が肩を窄(すぼ)めるように食卓を囲んだものだったはずです。しかし、さびしいことにここ数ヶ月間は毎日その席だけがいつも空席でした。でも昨日今日、明日もこの盂蘭盆の連日連夜だけは違うのです。お精霊さまをわが家にお迎えしたのですから。人間の両眼には写らないけれども、なつかしいおじいちゃん、やさしかったおばあちゃんが、生前通りの指定席にたしかに座って、僕たちといっしょに夕ご飯を食べているんだよという、自信確信に溢(あふ)れた喜びの心が十七文字になっていると感じられるのです。この情感こそが、育った家庭の良産物であるはずです。
お盆、すなわち盂蘭盆は、インドのサンスクリット語の音写(音訳)であり、平易に申せば当て字であります。盂蘭盆というインド語の言葉を、中国の人たちは「倒懸」と訳し、「倒(さか)さま懸(づ)りの苦しみ」と理解したのでした。そこで今度は、この「懸(けん)」と読む音について考えを廻らしてみると、さらに味わいが深まってきます。「懸」の音読「けん」を、同じ音の「見」の字に置き換えてみるとどうでしょうか。盂蘭盆を訳して「倒懸」と書く二文字の中で、「倒見」と一字だけ変えてみると、「倒さま懸りの苦しみ」という意味、またその苦しみの原因がもっと明確に受け止められると思うのです。「見」は、見ることだけではなくて、「考える」ということにも通じる一字であるのです。
そこから私たちが日常の苦しみの原因を、物事の受け止め方の考え違い、思い誤りによると考えてみることです。私たちのこの世のさまざまな苦の原因が、物事の受け止め方、考え方の誤りによって生まれていると考えてみたときに、「盂蘭盆」は一年の折り返しの節目として、佛法のみ教えに照らして自己の考え方の誤りに気付いて、その間違った思い違いや考え違いを正しいものへ改める時と考えてみることは、その意義から大いに大切だと思うのです。
先ほどの俳句の少年の家庭はいったいどのような情操篤き家庭であったのか興味が沸き、つい思いを趨(はし)らせてしまいます。これほどに情感豊かで、かつて日本の家庭が皆そうであったはずの「心の幸せ」を髣髴(ほうふつ)とさせる家庭がそこには現実に存在するということです。
生前のおじいちゃんやおばあちゃんのお膝の上に両手で抱かれて、何度も繰り返し毎日のように聴いたお話が、この純情な心豊かな少年を育てたことにまちがいはありません。亡きおじいちゃん・おばあちゃんが聴かせてくれたほとけさまのお話や、ご先祖さまのお浄土での様子など耳から心へ宝物が薀蓄(うんちく)されて、見えない世界をありありと心に観て、一毫(いちごう)も疑う心を持つことなく信じることの出来る少年を育てたと私は堅く信じます。
ただ今、二世代あるいは三世代が同居の家庭もあります。しかし親・子・孫でどれほど情感を交わす時がありますか。同じ家族として一つの家の中で、同じものを食する者同志でありながら、大事な心の相続・継承が出来ていない時代であると痛感いたします。
お盆こそ、わが家に数日滞在中のご先祖さまを交えて、家族皆で目に見えない大事な信仰の世界のお話に花を咲かせましょう。お佛壇の前に全員集合して、心の世界のお話をするうちに、日頃の考え違い、思い違い、苦しみの原因が必ず見つかるはずです。
家族みんなが手を合わせお念佛を申せば、ご先祖さまと共生(ともいき)の情感に恵まれて、生きる力が今まで以上に涌くはずであります。
合掌
プロフィール
安部 隆瑞(あべ りゅうずい)
滋賀教区 西方寺住職
総本山知恩院布教師会副会長
滋賀教区教化団長