京都教区大龍寺住職 御忌導師指南 拜郷英唱(はいごう えいしょう)

京都教区大龍寺住職 御忌導師指南
拜郷英唱
御忌導師のご指南(しなん)をされている拜郷英唱さんに、御忌大会(だいえ)への思いや指南の心得などについてお聞きしました。
知恩院との出会い
私が初めて京都へ来たのは昭和29年3月でした。まだ15歳でしたが、知恩院の華頂専修学院に入れていただき、諸堂のたたずまいや堂内の荘厳さに度肝を抜かれました。それが第一印象で、今も脳裏に焼き付いています。私が京都へ住み着くようになったのも、知恩院との出会いが感動的だったからです。
昭和35年から式衆としてご奉仕させていただいておりますが、多くの先生方の薫陶を受けて今の私があります。しかし当時の先生方は怖かったですよ。それだけの見識も持っておられましたから、一種の畏敬の念を抱いていたのだと思います。
御忌導師の指南役として

唱導師 習礼(しゅらい)の様子
前任の田原照純先生より指南役のお話をいただき、指南補として、先生の横に座りご指導の様子を拝見し、勉強させていただきました。
先生は「指南の仕事というものは、自分が勉強して新しいものを確立し、それを教えることではありません。古来から今日まで伝えられていることを間違いなく次の代に継承していくことが一番大事なことです。このことだけは肝に銘じてください」と言われたことは今も忘れません。
ところが、指南を任された平成19年、病院で肺がんの宣告を受けて入院したのです。その時、病院の先生に、まず「声が出ますでしょうか?」と伺ったのです。声が出なければ、お役を交代しなければなりません。先生が「声は大丈夫ですよ」とおっしゃったので、9月に左肺にメスを入れ、3分の1を摘出しました。やはり肺活量は少し落ち1年ぐらい体調が悪かったのですが、10月に始まる習礼(しゅらい)(御導師のお稽古)には病院から通いました。それができたのも、知恩院の執事長がお若い時に大病を患われ、それを克服されて今もあのお年でかくしゃくとされている、そのお姿が私にとって大きな励みになったのです。この程度のことでダメなら値打ちがない、というより、このことが原因で倒れたとしても本望だと思いました。まあ、あの時は覚悟を決めていたのだと思います。
御導師は人生の集大成

お稽古に励む唱導師たち

蓮華を掲げ持つ唱導師
御忌大会が大永4年(1524)から今日まで500年近くも続いているということは大変なことです。一時法要の規範が乱れた時に、それを立て直されたのが知恩院第21世大誉慶竺(だいよけいじく)上人といわれています。法然上人に対する思いを法式(ほっしき)の面からもう一度締め直さねばならない、と思われたのでしょう。ご諷誦(ふじゅ)(祖師報恩の志を述べる文)も慶竺上人のお力で出来たといわれています。
私も御忌の導師を2回勤めましたから、大役を勤められる方のお気持ちは良くわかります。礼拝(らいはい)をして元祖さまのお顔を拝した時、宮殿(くうでん)の中から元祖さまがすーっと、蓮華(れんげ)(唱導師が持つ蓮形の仏具)の上にお乗りになる……これを感じられるのは御導師だけです。この上ない悦びですよ。ですから、唱導師のお役に就くというのは、その人の人生の集大成ともいえると思います。御導師が全ての作法を終えて無心の表情で戻って来られた時、一種の神々しさのようなものを感じます。私にとっては、うれしくてたまらない瞬間です。
指南役は、大役のお手伝いをするのですから大変緊張します。針のむしろに座っているような気持ちです。それでも私がそこに座っているのは、長年伝えられてきたお作法を間違いなくお伝えするためです。
私は、時代によって物の見方・考え方は変わっていったとしても、日本人の根底にあるものは変わらないと思っています。御忌大会は、あの熾烈な大東亜戦争のさ中も、御門跡猊下はじめ重役の方々の懸命のご努力により一度も途絶えることなく続けられてきました。勅会として一年も休むことなく御忌大会が勤めてこられたということを、重く受け止めなければならないと思っています。
※ 月刊『知恩』4月号の巻頭特集でさらに詳しくご紹介しています。
プロフィール
拜郷 英唱(はいごう えいしょう)
昭和14年生まれ。京都教区 大龍寺住職。昭和35年総本山知恩院式衆、昭和36年750年大遠忌に式衆として出仕、平成12年式衆会会長、平成9年法儀司、平成3年御忌唱導師、平成12年御忌御当日導師、平成13年御忌導師指南補、平成23年同指南、御忌大会式務、法式指導所主任等を歴任。