月かげのいたらぬさとはなけれどもながむる人のこころにぞすむ
これは、法然上人さまが御道詠くださった「月かげ」のお歌で、日常勤行式の「摂益文(しょうやくもん)」の偈文(げもん)である「光明遍照 十方世界」を「月かげのいたらぬさとはなけれども」と、そして「念仏衆生 摂取不捨」を「ながむる人のこころにぞすむ」と、表してくださった御道詠です。
ある時、子どもさんが「月かげというのは、お月さまにより出来る影ですか」と聞いてこられました。「月かげは、月の光という意味で影ではありませんよ」というお返しをすると、「いたらぬさとはなけれども、はどういう意味ですか」と。「届かないところはないという意味だよ。山も丘も私達の村も、みんな月に照らされているのだよ」と答えました。すると「影になるところは光は照らしていないのではありませんか」と。良い質問だなあと思いました。「その通り。この光というものは必ず影を作りますね。ところが、このお歌の月かげは遮ることができない光で、影のできない光です。だから私達のいのち・こころの一番奥にある、日ごろ気づかない世界まで、この月の光は照らしてくださっているのですよ」と。
この話を耳にされたならば、そのような非科学的な話がこの世に通じますか、といわれそうです。しかしそこが重要なところです。私達は見える世界を見ていますが、それだけではなく、見えない世界が見える世界を実現させているのです。見えない世界は無限に広がり、ただ在るだけではなく、その世界の力と法則とそれによる大調和が、私を実在させてくださっていると言えます。
法然上人ご在世の時、私の命はどうしていたのでしょうか。ここに至っているいのちが当時なかったとしたならば、私の誕生はなかったこととなります。そうでなく、いつの世も変わりなく親子の関わりの連鎖により、命が伝えられ・育てられ・生かされて今日の私となっています。
しかし、この因縁果は、今の私に見えず・感じず・知らず、けれども「いたらぬさとはなけれども」と見放すことなく、守り護って私の脈拍を動かしてくださっているのです。
人生は旅であると古来の人は語りました。四季折々の変化に喜び・嘆き・感謝の一方で愚痴をこぼし、求めれば求めに応じて満たされない空虚さと不安を抱き、飽くことのない欲望を求めての旅である、と。この不完全な愚かな旅人を阿弥陀様が発見し、全うな者になれと《慈しみの願いと心》をかけてくださっているのです。そして、一時も離れることなく旅人へ語り続けます。
「旅人よ。有限世界の貴方の命は〈他者〉でなく〈一者〉なのです。貴方の愚痴なる存在は、私自身の悲願なのです。その悲願の結実は、阿弥陀仏の名号なのです。どうか精進あれ…」と。無限世界から有限世界の旅人へお念仏を贈り届けてくださっているのです。時に元祖、法然上人さまは「この時を外して仏縁はない」と、その誓願に応えるくらしを五つ明解にお示しくださったのです。
その一つは、阿弥陀仏の説かれている経典を拝読し、その真理を聞かせていただきましょう。二つめは、阿弥陀仏の身心を素直に仰ぎ、心にとどめさせていただきましょう。三つめは仏様と私が「一者の行」である礼拝を。四つめにすべてに通じる念仏の中で日暮しを。そして、五つめには仏様のお徳を慕い、せずにおれない供養を。
この五つの行を日々に勤めるとき、おのずから《こころにぞすむ》ことは間違いありません。その五行により、ただの旅人でありながらも月かげに照らし出された旅人となり、有限を旅し、そしてそれを終えたならば必ず浄土へ導かれるのです。
※平成30年12月25日に行われた、第621回おてつぎ文化講座の講演を要約し加筆したものです。
月刊「知恩」平成31年3月号に本稿をさらに詳しく掲載しています。

プロフィール
勝部正雄(かつべしょうゆう)
総本山知恩院布教師会会長
奈良教区 佛眼寺住職
前・京都文教小学校校長・中高副校長