ある人が日本における僧侶の人数を尋ねたところ、「僧侶は一人半おります。一人は行誡(ぎょうかい)上人、その他の僧侶を合わせて半人前です」と答えたというエピソードが残っている。
福田行誡上人。文化6年(1809)、武蔵国(東京都台東区)に生まれ、明治維新の多難な時期に仏教界をけん引するリーダーとして活躍し、最晩年には知恩院門跡もつとめた。今年5月、「廃仏毀釈より日本仏教再興百五十年」を記念して、東京・両国にある回向院で「行誡と弁栄」展が開かれた。
仏教界の唯一無二の柱
幼くして伝通院で得度した行誡上人は、その後、伝通院の学寮で修学し、漢学や和歌についても学んだ。文政8年(1825)、16歳のときに学問を究めるために上洛。特に深く傾倒したのが、比叡山世尊寺の慧澄だった。慧澄と出会えたことを「この世に生まれて得ることができた最良の思い出」だと後年に振り返っている。
持戒清浄を保ち、広く仏教全体についての見識を持った学僧として生きることを志した行誡上人は、町寺の住職になるのを願わなかったが、慶應2年(1866)、檀信徒の求めを断りきれず回向院の住職となった。また、仏教界からの信望も厚く、明治維新を迎え神仏分離令等の政策に混乱するなかで、宗派を超えて僧侶らの中心的指導者となった。
行誡上人は、明治初年の難局にあっても、深い宗教観をもって堂々と振る舞ったという。
明治5年(1872)4月に「僧侶の肉食妻帯勝手たるべし」の太政官布告が出されたときには、即座に建白書を提出して取り消しを申し出るとともに、各宗本山に持戒清浄の生活を徹底するように促した。地動説が須弥山を中心とした仏教的世界観を揺るがすと危惧されたときも、「極楽浄土は須弥山の世界の外にあるから関係がない」と喝破した。キリスト教の進入については、これを排斥しようとした僧侶もあったが、行誡上人は「大慈悲の心をもって開導すべし」という態度をとった。
明治12年(1879)、増上寺に晋山。放火により焼失していた大殿再建の勧募のため、全国各地へと巡錫した。復興の目途が立った明治19年(1886)に増上寺を退き、深川本誓寺に隠棲したが、浄土宗一宗をとりまとめる重役を果たすことを請われ、翌20年に知恩院住職となり、新たに制定された「浄土宗制」によって初代浄土宗管長となった。翌21年4月25日、知恩院塔頭の信重院で遷化。「全仏教の法城において唯一無二の柱を失った」(明教新誌)と悼まれた。
行誡上人を慕った人々
自分を律することに厳しかった一方で、他人に対しては温和で洒脱な性格であったため、行誡上人を慕った人は多く、その行跡をうかがいしれるものがいくつも残っている。
祇園商店街の一角にあるお香と経本の店・豊田愛山堂は、江戸で創業したが、行誡上人が知恩院門跡になるにあたって、京都へと移ったという。豊田愛山堂は、「元祖大師御法語」(前・後篇)を出版するなど、用達の一社として今日までお念仏の信仰を支えてくれている。知恩院から歩いて数分のところにあるので、参拝の折にふらっと訪ねてみてはどうだろう。
また、行誡上人は、「記念碑的なものは要らないが、結縁のために観音菩薩を立てるなら弟子たちの意志にまかせる」と言っていた。弟子たちはこの遺志にしたがって、東京美術学校に観音菩薩像の鋳造を依頼。原型を作ったのが高村光雲である。十三回忌にあたる年に知恩院に納められ、いまは友禅苑の池に安置されている。
廃仏毀釈から学ぶ
行誡上人の尽力などもあって、仏教界は多難だった明治初年を乗り越えた。それでも廃仏毀釈のために、多くのお寺が消滅した。昨年、『仏教抹殺 なぜ明治維新は仏教を破壊したのか』を執筆した浄土宗僧侶の鵜飼秀徳上人は、お寺が破壊された原因の一つとして僧侶自身の怠慢があったことを指摘したうえで
江戸時代、寺院の数は人口三〇〇〇万人に対し、九万カ寺もあった。それが廃仏毀釈によって、わずか数年間で四万五〇〇〇カ寺にまで半減した。それが現在、七万七〇〇〇カ寺( 人口一億三〇〇〇万人)にまで戻してきている。厳しい言い方をすれば、復興が叶わなかった寺院は、そもそも社会にとって「不必要な」寺院であったのかもしれない。(二四三~二四四ページ)
と考察している。
そして現代。廃仏毀釈ほどの過激さはないが、お寺の在り方は厳しく問い直されている。そのことは同時に、豊かな学識と、潔い生き様をもって人々を導いた行誡上人のような傑僧が求められている、ということでもあるだろう。
(取材・文 池口龍法)
● 本稿の執筆にあたり、東京教区本誓寺住職の福田行慈上人よりご協力をいただきました。御礼申し上げます。