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2020年3月

「生かされて」
講師
知恩院執事長 おてつぎ運動本部長 井桁雄弘

幼少期の戦争体験

 私は、昭和9年に大阪市住吉区のお寺で生まれました。小学校に入学した昭和16年の12月8日に太平洋戦争が始まり、国全体が戦争一色に包まれました。出征していく兵隊さんを町内挙げて見送っていましたが、昭和18年以降になると赤紙(召集令状)が次々と届き、見送る余裕もなかったです。女性はモンペ姿で、子どもはみんな足にゲートル(脚絆)を巻いていました。家の前に水を入れたバケツ、竹槍2・3本を置き、防火訓練や空襲警報の練習をしたことを覚えています。

 物資はすべて配給制で、戦争が終わってからも窮乏生活が続きました。お寺の線香、ロウソク、お香なども配給。金目になる釣鐘などはすべて鉄砲の玉にするため供出されました。病気や風邪を引いても薬がなく、栄養失調で亡くなる方もたくさんいました。お経を上げに行くと、頼りない若造でもお布施をいただけるのです。生活の糧であるお布施で生かしてもらっていることは本当に有り難かったです。

仏教青年会の取り組み

 街の真ん中にあった私のお寺は、幸い空襲で焼けずに残りましたが、本堂は木が古く傷んでいたのでバラックで建て直しました。完成した後に師匠であった先代住職が38歳で急死。佛教大学を卒業したばかりの私が32代目の住職を継ぐことになったのです。

 住職になってすぐに、大阪市の各区青年僧5、6名が集まり、仏教青年会を作りました。4月8日に各寺で花まつりを行ったことが発端で、地蔵盆、お彼岸、成道会などもしました。読売新聞や森永キャラメル、近鉄百貨店の方々に協賛いただき、子どもたちにお菓子を配ったり、映画「巨人の星」や紙芝居を上演したり、遊戯をしたり、街の人たちの集まる場所として、お寺を開放していました。そうした取り組みを30年ほど続けていました。

 昭和42年、私が仏教青年会の大阪教区の参事をしていた時に、当時の浄土宗の小林大巌宗務総長ならびに知恩院の鵜飼隆玄執事長から「次の時代を担うため、浄土宗青年会を作ってはどうか」という話をいただきました。全国各地の教務所の教区長を訪ねて回り、昭和45年に27教区で浄土宗青年会が発足しました。その後、47教区の全国組織へと広がり、今年でちょうど50年目を迎えます。

 昭和から平成になると、街のひとつ の集団であったお寺の形が崩れてきました。少子化、核家族化が進み、檀家さんの信仰が薄れ、お寺との距離が遠くなってきたからです。僧侶の取り組み自体も時代の変遷によって変化してきているのかもしれません。お寺が地域に欠かせない存在として、どう守り育てていくのか、将来を見据え、しっかりと考えていかなければなりません。檀家さんや地域の方との信頼関係をより一層深め、仲良くしていくことが大切です。大いに知恵の絞りどころがあると考えています。

生かされる喜び

 知恩院の執事長に就任し、1年が経ちました。おかげさまで元気に一生懸命やらせていただいています。生きて、生かされて、生かしてもらっているからこそいろいろと出会いがあります。生誕1133年の法然上人の年譜で数えると今年は888年目。末広がりの「8」が三つも並ぶおめでたい年に巡り合わせてもらえることが有り難いです。戻ることのできない今日という一日。今生きているということが大切です。生かされる喜びを日々感じています。

 平成23年の法然上人800年大遠忌の後に始まった国宝御影堂の大修理は9年間かけて無事に完了しました。今年の4月13日から15日に御影堂落慶法要が営まれ、5月からは半年間に及び落慶記念団体参拝が行われます。ご縁のある多くの方々にご参拝いただき、ともに喜びを分かち合いましょう。日本だけでなく世界中の人々の幸せを運ぶお念仏の新しい根本道場となることを切に願います。「南無阿弥陀仏」の一言があなたを救ってくださるのです。これからもお念仏で守られる生活を送らせていただきたいと思います。

※ 令和2年1月11日に行われた、第634回おてつぎ文化講座の講演を要約し加筆したものです。月刊「知恩」令和2年3月号に本稿をさらに詳しく掲載しています。

月刊誌「知恩」

プロフィール

井桁 雄弘(いげた ゆうこう)

昭和九年生まれ。大阪教区相阪組大圓寺住職。全日本仏教会理事や大阪府仏教会会長などを歴任。平成二十七年より知恩院顧問会会長。